予備試験を地方で独学受験やってみた。そして受かった。

予備試験を、東京から遠く離れた地方で、予備校の答練を使用せずしました。

司法試験に落ちたあなたへ、エピソード1 抜粋(1)

司法試験に落ちたあなたへ、エピソード1抜粋(1)

【司法試験のコスパについて】

学生

 法科大学院三年間で、生活費や授業料等、全ての支出が一千万円近くかかって、就職したら年収三百万円では、割に合わない。だから、やめる』、という発想から、志望者が減っている、という記事を読みました。先輩は、これについて、どのようにお考えですか。

 

先輩

 確かに、割に合うか、という点から考えると、その記事が語るような側面はあります。

割に合うか合わないかを考えるとにあたって、金銭に換算するのが、一般的にもっとも公平なやり方といえますから。

 

しかし、法律を学習する意義とは、そういうコスパとか、時間の切り売りといったサラリーマン的な考えから離脱したところにあると思うのです。

 

少数派の人権の最後の砦が裁判所ならば、裁判に関わる法律家も、多数派の考えを漫然と受け入れず、自分の頭で考える事を求められている、と思います。

 

勉強に集中する生活を送っていたら、落ちることの不安に押し潰される、ということにはならないのではないか、と思います。そういう心配がある段階では、心の隙があるという点で、まだ精一杯勉強をしていないのでは、との疑問を生じさせます。

 

私は、法科大学院修了後、失権して予備試験を受験した人間ですから、客観的に見て、遠回りした受験生です。しかし、私個人の人生としては、(職がなかった時期の逸失利益を含む)高い授業料を払ってでも、得るべき、貴重なものを得られたと思っています。

それは何か、という事ですが、一言で言うと、「ものの考え方」です。

世間一般で述べられていることが、必ずしも正しいとは限らない、という事に確信をもちました。それ故に、そういう世間一般の考え方に、大きく左右されない人生を歩む礎を築くことができた、と思っています。この点はまだま自己研鑽が必要だと思っていますが。

少なくとも、法科大学院の志望者又は在学生が陥っているであろう、落ちたらどうしよう、などという考えの段階からは脱出できた、と思っています。

勉強時間を確保して、努力をしても、落ちてしまう受験生は、こういう考え方に問題があるのでは、と思わされます。

他者がどういう考え方をしているのか、完全には分かりませんが、いろんな記事から推しはかるに多くの人が抱いているであろう、「落ちたら全てが無駄になる」という考え方では、試験当日に異様な重圧がかかってしまうのではないか、と思うのです。

博打や宝くじと違って、正しい考え方で、日々真摯に勉強に取り組んだ人間にとっては、合格率は限りなく100%に近くなります。

そういう事を分かっているか、分かっていないか、というだけでも日々の勉強に差が出ます。そして、究極的には本試験での出来に差が出ます。

 

予備試験や司法試験の勉強をする意義は、単に資格を得て、俗世間に法律の専門家と認められて、仕事をすることだけに止まりません。確かに、(受験生や合格者の)外から見ると、そう見えるかもしれません。

しかし、当事者となって、初めて気付くこともあります。そして、そういう新たな気づきが俗世間の考えと違うからといって間違っているとはいえません。もう、自分としては、そうとしか考えられない、というレベルまでの確信になっているかもしれません。

 

それに少し気になったのですが、予備試験や司法試験をコスパで考えて受験勉強をするならば、金さえ得られれば後はどうでも良い、という考えのもと、自分で考えたり感じたりする事を放棄する、やさぐれた社会人と同じだと思いませんか。

そういう考えの人間は、そもそも法律家としての前提を欠くのではないか、と思います。

受験勉強しているうちに、そういう世間一般の考えではなくなるところに、試験勉強をする意義があるのではないか、と思います。

法律家の仕事は、本来的には訴訟に関する業務であり、裁判所とは少数派の人権の最後の砦となるところなのですから。つまり、世間の多数派が常に正しいとは限らないことを、その仕事をもって証明していくのが法律家である、とも思うのです。

また、法律の勉強に限らず、自分の考えと、世俗の考えを分離できるところに、勉強する意義がある、と感じます。

もしかしたらこのことは、何も試験勉強に限らず、何かの分野で極める人全般に言えることかもしれません。

 

学生

なるほど。

確かに私も、勉強をしていると世俗の価値観に疑問を感じる時もあります。

また、周囲の人達とも、考え方が違うな、と実感することもあります。

それでも、勉強が楽しいな、と思える瞬間には、そういった世俗で感じる孤独感から解放され、至福のときを過ごせます。

 

先輩

芸能人やスポーツ選手を目指す人など、もっと狭き門になりますよね。それでも一定の人は、目指しています。そういう厳しい世界に覚悟をもって身を投じる人は、成果が出る傾向にありますし、自分で選択してこの道に入ったという意識があるので、どんな困難にも立ち向かっていける傾向にあると思います。

 

ーーー

学生

なるほど、やはりネットの記事は大衆の好奇の的になるようなことを話題にしたがりますよね。

やはり自分の人生は自分で考え切り拓いていかなければならない、と思います。

先輩

そういう記事は、多くの俗世間の人の考えの、氷山の一角であると感じるので、さらに批判させていただきます。

ただ単に、試験に合格して社会的地位を得るためだけに、勉強をしているというのなら、とてつもなく虚しい人生になってしまいませんか。

それに、そういう人に限って、実際、実務についた時に「こんなはずじゃなかった」とか思うのではないか、と私は思います。

近年、若い司法修習生の犯罪行為(酒に酔った際の、社会的逸脱行為)がニュースで取り上げられていますが、そういう事件の背景には、試験さえ受かれば人生それで良い、という世俗にまみれた考えがあるように見えます。

もちろん、試験を受けるまでは、そういう考えから逃れられない側面もありますが、試験を受け終わった瞬間から、当然のようにそういう考えから解放されなければならない、と私は思います。そして、新たに打ち込む対象を見つけて、日常を生きていかなくてはならない、と思います。

そうじゃないと、それこそ世俗にまみれる虚しさから逃れられないのではないか、と思います。

勉強が得意な人間は、経済状況が不安定な自由業よりも、安定した職を好む、と一般に言われます。

しかし、私はむしろ公務員等の、一見経済的社会的地位が保証されている職業こそ、搾取される危険があるのではないか、と思います。社会的経済的地位にしがみつくために、法的に認められた自分の権利主張一切を(自己保身という達成が不確実な目的のために)諦め、しかもいつも自分のアイデンティティの拠り所の無さにさいなまれる、といったようなことが生じやすいのではないか、と私は思います。

上の立場の人に媚びへつらって、自分の職業上の立場をなんとか維持したとしても、他人が自分の人生まで責任を負ってくれるわけではありません。

死ぬ前に、自分の人生は虚しかった、と嘆いても、他人に責任をなすりつけることはできません。

ただ、この点は、人それぞれ考え方が違うところですから、これ以上深掘りしません。大きな組織にぶら下がって自分の独自の感性や考えを主張することを放棄して、一定の経済的社会的地位を保証されている方が楽だ、と考える人もいるかもしれません。広い世の中、そういう人がいても、おかしくないと思います。

官僚の不祥事からも、大きな組織に従属して、その立場を利用して世間を上手く渡っていきたい、出来れば楽して甘い蜜も吸いたい、と考える人の存在が見え隠れします。

ただ、自分の人生を切り開いてきた人間にとって、そういう生き方は耐え難いのでは、というのが私の考えです。

 

批判ばかりして、自説を述べないのはフェアじゃありませんから、私の考えも述べさせていただきます。

私はこうして、司法試験の勉強をする醍醐味とは、「自分の頭で考えられる人生をおくれる」という事にあるのではないか、と思います。

 

私が受験生の時、俗世間の考えと異なる考えをもてたことが大きな発見であって、それだけで意義がある、と思えることに価値を見出せました。それで良いのではないか、と思います。

特に、法律家の多様化が予想される、これからの時代は、これで良いのではないか、と思います。

 

たとえ自分の考えが、世間一般の考えと異なっていても、世間の考えに迎合せずに生きていられる、という、一見誰でも出来そうなことで世の多くの人がなかなか出来ないことが、できる、ということです。こういう生き方、というものは、必ずしも経済的評価に直結しませんが、内心の自由、精神的豊かさ、という点において、それこそプライスレスな価値をもたらす、と私は思います。

仮に、収入が、世間と迎合して虚しさを毎日心に抱き、飲酒や娯楽でごまかしている人間と、同じか少なかったとしても、人生における心の自由、ひいては心の豊かさという点において雲泥の差が出るのではないか、と思います。

これは「何になるか」よりも「どう生きるか」を重視する、という考えからくるものであって、実のところ、こういう考えは私が15歳の頃からもっていました。

改めて、私の10代の頃の考えについて、自分の体験をもって裏書きされたことを実感しています。

 

学生

なんか、そういう域に達するまで、程遠い気がします。

試験が終わったら、しばらくは遊び呆けたいと考えるのが普通ではないか、と思います。これは何も私が特別に怠惰な人間だから、というわけではなく、周りの人間を見ていても、そう感じます。

 

先輩

それが、違うんですよ。当事者になると。正確には、受験勉強に打ち込んでいる当事者になると。

世俗の人が享受している楽しみを諦めて、こんなに苦しい勉強をしているんだから、試験が終わったら、その分取り返してもらって当然じゃないか、と考えるのでしょう。

例えば、お金をたくさん稼いだり、周囲の人間の尊敬を得たり、異性にモテたり、といったところでしょうか。

しかし、私はそうは思いません。確かに、あなたが言うような世間一般の人が考える気持ちになることもありました。

試験前の数ヶ月間、好きな舞台や好きなスポーツの試合を見に行くことはもちろんのこと、テレビや動画で見ることも、控えました。

結構、キツかったです。試験が終わったら、思う存分見たい、とも思いました。

ただ、いざ試験が終わってみると、完全に、「文字の中の住み人」ーーーとなっていました。そのため、映像の中の娯楽に身を投じよう、というモチベーションがなくなっていました。

結局、図書館で借りていた、岩波文庫の古典小説(トルストイカミュの本等)を何冊か読んで、気分転換をはかりました。

試験に向けてだけではなく、人生全般において意欲的になれ、結構良い気分転換になりました。

 

試験が終わったから、勉強する目的をなくし、娯楽に身を投じる、という考えによる人生は、虚しいのではないか、と思います。

 

そういう考えは極論すると、勉強している自分は犠牲者と考えていることになってしまうのではないか、と思います。

それに、試験に受かっても、経済的社会的地位が保証されておらず、確実に異性にモテるわけでもありません。むしろ、そういう不確実な人生を生きている、と自覚できることが大切ではないか、と思います。そういう立場が保証されてしまっていたら、あとは自己保身にはしるだけの人生になってしまいかねません。

それに、真摯に勉強をしていたら、「試験に受かったから勉強は終わり、あとは金だ、娯楽だ」という考えにはなりません。

そうならないように勉強をすることが求められているのではないか、と思います。

 

 

学生

そうですか、相変わらず、勉強になります。

また、実際に試験を経て実務につかれた人で、試験以外にも自分の適性のあるものはあった、と半ば、法律家になった事を後悔しているような発言をしている人もいました。

現状の生活に、決して不満足というわけではないどご本人もおっしゃっていますが、話の随所に、平凡な日常に対するやりきれない気持ちが感じ取れました。

 

これは、自分の意見ではないのですが、言われてみればごもっともだと思ってしまう考えで、それを聞くと勉強する意欲が萎えてしまうので、先輩の考えをお聞きしたいです。

 

先輩

その人の考えは、世のサラリーマンと似て非なる側面があるように感じます。

仕事もあって、妻子もいて、社会的にみて一定の恵まれた生活をしているけれど、時折、なんとなく虚しくなる、ということだと思います。

そういう人は、どの職業でも、一定程度いるのではないか、と思います。

法律家よりも、もっと適した職があったかもしれない、と考えてしまうのは、自分が日頃の生活を楽しめない事を法律家という地位のせいにしているからだと思います。

士業は、本来的に自由業なのですから、法や弁護士職務基本規定に反しない限り、 基本的に何でもやって良いのです。

 

弁護士職務基本規定に、品位保持義務という、やや抽象的な義務がありますが、それも過去の懲戒事例を見ていると、憲法の人権侵害等、よっぽどのことがない限り、義務違反とされないと思えます。

世俗的な遊び、例えば、中年の男性が若いアイドル歌手に貢ぐ程度では、品位保持義務違反にならないと思います。

ちなみに、この例は、(要件事実の本として受験生がよく利用している)大島先生の本から想像することです。

その本の中で、仮の事例をあげる際、(総選挙を実施している)某アイドルグループの名字や名前が(姓と名をバラバラに組み合わせて)使用されていました。意図的に、としか思えないもので、最初読んだ時には驚きました。

しかし現状の私は、法律家とは高潔で世俗的な娯楽に一切関わってはならない、というステレオタイプの考えを打ち砕く意図が、あったのではないか、と考えています。

その本の事例は、このくらいだったら良い、と受験生や法律家に思わせてもらえる、という点で意義があったのではないか、と思います。

 

弁護士の広告も解禁されましたし、訴訟活動以外に、社会に貢献できる活動として、アイドル歌手の活動に準じる程度のことはしても構わない、と提示されているような気すらしました。

 

そもそも、法科大学院制度をつくって、法曹人口を増やそうとしたのも、訴訟行為以外に、法律家の仕事を拡大させ、日本経済の発展を図る、という目論見があったのではないか、と思います。

ただ意外と、皆、最高裁判例の先例拘束力の意識のもとで勉強をしてきたせいか、試験が終わって実務についた後も、従来の法律家の活動(訴訟活動、国選弁護、予備校講師)以外のものに手を出す人が少ないように思います。

 

法律家の仕事として 、そういった従来の法律家の活動が限られており、法律家の人口が増えるのであれば、法律家の市場に参入する当事者の自分としては、自分なりの仕事を考えておかなければならない、と思います。

 

 

学生

そこまでくると、なんだか、今までの法律家のイメージが全て覆りそうです。

 

先輩

全ては、考え方にあります。

『引きこもり』と一口に言っても、全ての人がうつ病患者又は、社会の膿とは限りません。

 

FXや株などで、億単位で稼いでいる人も、客観的には引きこもりですし、難関の国家試験の勉強に打ち込んでいる人も、客観的には引きこもりです。

そういう人も、他の引きこもりの人と同様に、時にストレスを抱え、うつ病予備軍になっている場合もあるかもしれません。ーー

また、芸能人やプロスポーツ選手も、脚光を浴びている時以外は、自宅等どこかに引きこもって、孤独感をもちつつ自己研鑽に励んでいるのではないか、と思います。

 

客観的に見て、高級取りで順風満杯な人生を送っているように見える人でも、時に引きこもって、人には言えない悩みに苛まれていることもあると思います。

人間ですから、それも特段、不自然ではありません。

それでも、何とか真摯に生きています。

こう考えると、『引きこもり』というのも、定義があやふやな感は否めないと思います。

働き方の多様性が何かと話題になる世の中、それで良いのではないか、と私は思います。

 

ただ、声を大にして言いたいのは、たとえ友人や家族がいたとしても、一個人の人間としては皆、孤独なのだ、という事です。

この事実を胸に、人生を生きると、他者への理解や、慈しみにつながるのではないか、と思います。

その孤独感を、世俗的なもので、ごまかして生きてしまうと人生の醍醐味が半分以上、失われてしまう、と私は感じます。

 

あなたのような若い人にとっては、耳が痛い話かもしれませんが、私の考えを実感する日が来ることを願っています。

 

 

学生

なるほど、全ては考え方って事ですね。ここまできて、試験に受かるか落ちるか、ということを考えている自分がいることに気づいてしまうのが嫌です。

 

先輩

はい、そうですか。正直ですね。自分の内面に向き合うのも大切です。

 

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、『幸福な家庭はすべて互いに似通っているが、不幸な家庭はどこもその趣が異なっている』と述べられています。

言い得て妙だと思います。

私も、試験勉強をしていて、試験についてこれと似たようなことを思っていました。

それは、『本試験の答案において、優秀な成績を取る人のものは全て似通っているが、不良であるものは、どれも間違い方が異なっている』ということです。

さらに、それに加えて答案を作成する人間についても、思うところがあります。

 ーー

 トルストイのアンナカレーニナの出だしで、そういう文章がありますが、法律の論文式試験の解答でも、同じようなことが言える、とは、かねてより思いました。

より小説に近づけて言うと、「優秀な答案というのはどれも互いに似かよっているが、不良の答案というのは、どれもその趣が異なっている」と。

しかも、優秀な答案を書く人々は、一個人として見たときには、似ているどころか、その思想、価値観に、俗物とは隔離したオリジナリティを各々が持っている。それぞれに、人間としての、何らかの魅力がある。

他方で不良の答案を書く人々は、答案を離れて、人間として見たときに、孤独を受け入れ得られず、世俗にまみれて生きている、という点において、互いに似かよっている、と思った。

 

つまり、世俗にまみれて生きている、自分の頭で考えず世俗の価値観に身を委ねて生きている、という点で、しっかりした個性を持たない人間という意味において同じだ、と感じるのだ。

 

 

あの人には、彼女がいて、とか家庭があって、と言う人がいるかもしれない。

しかし、たとえ、彼女、家族、という存在がいたとしても、それらに人達は究極的には、自分とは別の頭と心を持った人だから、孤独を紛らわせることはできても、完全に分かり合えることはない、と思います。

そして、勉強や仕事に打ち込んでいる人ほど、そうなのではないか、と思います。俗世間にまみれて、なあなあで生きている人達は、彼女とか家族とかがいることで、体面を保てたことに満足し、孤独を受け入れる努力を怠ってしまう傾向にあると感じます。

 

―――

それは、『良い成績を取る人というのは、それぞれに考え方が異なっているが、不良の成績を取る人というのは、試験において俗物的考え方をしているという点において似たような考えをしている』、ということです。

上位の成績の人達が、答案においては同じような答えを提示しているのに、生き方や考え方、価値観になると、それぞれ別個独立の考えをしているのは、それぞれが個人で勉強に打ち込んできたためオリジナルの考えが出来上がっているからだと思います。

他方で、不良の成績を取る大半の人は、試験対策としての勉強に十分打ち込まずに、それでもまぐれ合格を狙って試験を受けているわけですから、俗物に迎合した世俗的な考えをもって生きているために、考えが似通ってくるのだと思います。

これも、あなたが勉強が進んでくると、言い得て妙だ、と思うかもしれません。

考え方の違う人で、かつ、勉強に打ち込んできた人と関わり合えるなんて、考えただけで私はワクワクします。

 

試験勉強をしていない人が、俗物、というわけではなく、試験勉強に打ち込める環境にあるのに打ち込まずに試験を受ける人というのは、世俗的な遊びで気を紛らわせている姿が容易に想像出きますので、どこかで世間に迎合している、と私は言いたいのです。

試験勉強以外の、何らかの自分の専門分野において打ち込んでいる人は、試験で上位合格する人と同じかそれ以上に、自分なりの確固たる考えを持って生きている、と私は思います。

これは、何も勉強の分野に限らないと思っています。そういうワクワクする人生を送るためにも、自分自身が精一杯、目の前のやるべき事に打ち込むことが大切だと思います。

 

先輩

 

こう考えてみると、自分が若い(主に大学生の)頃、勉強をそれなりに頑張っていたにもかかわらず結果が出なかった理由が分かるような気がします。

『上位合格者の勉強方法』という司法研修所が出している本で、一位の合格者は予備校を一切使っていませんでした。そして、勉強方法が、王道中の王道でした。

さらに、その誠実で努力家な人間性まで透けて見えそうな気がして、凄みを感じさせました。

『超上位合格者って、やはりこういう(王道を行く)人なんだな』と感嘆しました。

 

私が、大学生の頃に出会った合格者も、もちろん優秀で努力家な方々が多かったのですが、皆が皆人間ができていて、模範的な受験指導が出来る、というわけではありませんでした。

考えてみれば、この世の合格者には、超上位合格者の方が圧倒的に少数派なので、そういう人の受験指導を受ける機会に巡り合う事の方が難しいといえます。

ただ、現代のネット社会においては、上位合格者の声を探し見つけることもできます。また、そういう書籍も、探し、見つけることができます。

このような現状に鑑みると、模範的な受験指導を受けられなかったことについて、一概に、自分が実際に出会った合格者のせいには出来ないと思います。

そういう、受験指導をどう捉えて、どのように自分の勉強に役立てていくか、考えて試行錯誤する事も実力のうちだと、今では思っています。

 

それに、何が『正しい受験勉強の方法か』という点についても、人によって異なると思います。

まとめノートを作るのが良い、という人もいれば、そういったものは作らずひたすら過去問を何度も解きまくるのが良い、という人もいます。最終的に、試験で求められる実力が身につけば良いわけですから、そこに至る方法は、十人十色といえると思います。

 

また、「オレは、もう受かっちゃったからぁ~」と、自慢したり、カッコつけたりする人は、まず最初に適切な指導者から除外して良いでしょう。

さらに、まだ受験生の点で、「オレは弁護士になってやるんだ」と言っている人も、大した事ないと思います。

実際、私の学生の頃を振り返っても、そう言っている人が合格した試しがほとんどありません。本当に試験に通る人は、どう勉強すれば落ちないかを考えながら、勉強に打ち込みます。

もちろん、心の中では、そのように(『弁護士になってやるんだ』と)思っていても一向に構いません。

ただ、思いが強いからこそ、あまり言わない、声高にのたまわない、というのはどの分野でもいえることではないでしょうか。

 

極論すれば、『落ちる人ほど受かることを考えていて、受かる人ほど落ちることを考えている』ともいえます。

 

また、『予備校が害悪だ』という見解の根拠として、答案練習会の問題の質が過去問と雲泥の差がある、ということに加えて、『合格すれば終わり(目的達成)だ』という誤った考えを植えつけられる危険性がある、ということが私からは考えられます。

前者の根拠は巷でよく知られていることですが、後者については、どちらかと言うと私が個人的に強く思うことです。

試験の合格というものは一定の水準に達した成績をとった人間に認められるものであって、実態はかなりのグラデーションで、合否の境目付近の実力はかなり拮抗しています。ーーー

 

司法試験合格率の高い予備試験でも、1番から450番位まで順位がつきます。仮に定員が450人だったとした場合、450番と451番の人は実力としてほぼ同じと言えます。科目によっては後者の人の答案の方が良いものもあるはずです。

それを落ちたか受かっただけで、天と地の差ほどあるように俗世間において扱うのは、如何なものか、と思います。たとえ、受かったとしても400番付近であれば、予備試験レベルでもまだまだ理解不足の点はあるはずです。逆に合格ラインに2点ほど足りなくて落ちたとしても、試験日まで勉強を頑張って身につけたものは、誰にも奪われるものではありません。試験に向けて本当に適切な努力したならば、誇りをもって良いと思います。できなかった箇所をしっかり復習すれば、間違いなく次の年には良い結果が得られます。

そのような実態を軽視させるかのような表現が予備校ではなされています。さも、合格者が凄いように取り上げたり、(まぐれ合格かもわからない)合格者の人数を誇示したり、といった表現が宣伝でなされたりします。予備校も、営利を目的として業を行う組織である以上、致し方ない側面はあるのは分かっています。ただ、一受験生としては、気をつけておかなくてはいけないなぁ、と思います。

予備校のパンフレットや宣伝を真に受けて、無批判に利用していると、試験合格というものにあたかも色や形があるかのように見え、勉強に打ち込むにしたがって、そういった考えが誤りであることに戸惑い自分で導き出した正しい考えに従えず、伸びる成績も伸びなくなってしまいかねません。

試験勉強とは、試験を通過点として、自分の実力を最大限伸ばす過程であって、試験の結果自体に色や形があるわけではありません。

そこには『考え方』があるだけです。

シェイクスピア的にいうと、『試験に、人間としての合格も不合格もない、ただ考え方があるだけだ』(原文『人生に、幸福も不幸もない。ただ、考え方があるだけだ』)

 

 

学生

深いですね。ーーーーーーー完成版はnoteにて公開

 

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司法試験に落ちたあなたへ(6) 予備試験口述試験の体験について

司法試験に落ちたあなたへ、エピソード1についてはこちら(note)

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司法試験に落ちたあなたへ(6)

【本当に試験の合否が関係ないか  口述試験の楽しさ】

学生

じゃあ、少しあげ足をとるような質問をさせてもらっても良いでしょうか。

先輩がおっしゃることは、司法試験の受験界においては、少数派で、かつ反駁もされるものだと思います。

落ちたら、全く意味ない、と思ってしまうのですが、実際に落ちてしまったら、資格を得られないのですから、やはり「意味がない」といえませんか。

 

先輩

そういう意見は、受験生の中でよくあるものだと思うので、強く主張したいと思います。

大切なのは、合格に値するほど勉強に打ち込むことだと思います。そして、たとえ受験期間中に合格レベルに達したといえる場合であっても、真摯に日々の勉強に打ち込まなければ、本試験での良い成績は望めません。

なぜなら、本試験においては、知識の吐き出しではなく、基本的な知識をもとにして現場で考えることが求められていますから。合格が人生の最終目標と考えることも、伸び悩む原因だと私は思います。大事なのは、自分のやるべきことに打ち込み、それを通して社会に関わっていくことです。

それに、たとえ落ちたとしても、そこまで勉強し、身につけたものは決して誰にも奪われません。

ここで身につけたものは、法的知識や思考力に限らず、世俗の人間に対する洞察力や理解力など、に及びます。

そういう目には見えないけれど、人生の糧や、人間性の魅力になっているものは、たくさんあります。これは何も、司法試験だけに言えることではありません。同じ私立大学に入学した大学生であっても、高校時代、勉強に打ち込んでセンター試験を受けた人と、何となく推薦で入った人間とでは、同じ学歴であっても、内面の充実や生きていく上での知性として雲泥の差があるのではないか、と私は思います。

そして、そういう内面の違いは、日常の学校生活における言動にそっくりそのまま表われると、私の経験上思います。

 

学生

女性は、何度も試験を受けていると婚期を逃すから、何度も受けられない、と言っている人がいて、なるほどなぁ、と実感しました。

独身の先輩は、この点についてどう思いますか。

 

先輩

合格者として、華々しくもてはやされる一方で、世間一般において合格者の闇はあまり語られません。語られることが許されないのではないか、とも思うほどです。

しかし、この点について鋭く語っておられる合格者がいました。その人は、司法試験に受かるほど勉強に打ち込むと、恋愛や結婚が犠牲になる、ということを語っておられました。それを聞いて、まさにそのとおりだな、と感じます。また、現実を直視する聡明さを尊敬すると同時に、現実を語ったことについて、勇気あるなぁと思いました。

私も、(浪人生として)勉強に打ち込んでいる時には、恋人はもちろんのこと、友人と遊ぶこともできませんでした。

しかし、それによって改めて人との関わりの素晴らしさを実感しました。

学生時代に交流した友人達が、この世のどこかで活躍しているのだと思うと、励まされました。彼ら彼女は、たとえ現実に会わなくても、私の心の中に存在していたのです。そして、その存在によって、私は励まされ、一般的にいうところの厳しい試験勉強を乗り越えられました。

一人で勉強に打ち込んでいる時でさえ、一人ではない、と実感できました。

そう考えると、外形的客観的に見た「ぼっち」など、どうでも良いと思いませんか。実質的に自分は一人じゃない、というより自立した人間として交友関係を築けている、という内面の自信があれば、外形的客観的に「ぼっち」であることなど、どうでも良いと私は思いました。

もっと言ってしまえば、外形的客観的な「ぼっち」を逃れるためだけに、友達や配偶者とべったりして、内心では憎しみ合いしかない、なんてことは世の中結構あることでは、と私は思います。

それは、私の目から俗世間の人を見た感想でもありますし、訴訟にまで発展する夫婦や人間関係トラブルを見ても思います。

 

学生

確かに、先輩のおっしゃるとおりです。

なかなか、そういう境地にまで至りません。一人だと、不安に感じることも多いです。

 

先輩

そう感じて、当然だと思います。そういう不安に向き合っていくと、先々で良い友人と出会えると思います。なぜなら、司法試験というものは、そういう不安と向き合いつつ、自分の頭で考えながら勉強を進めてきた、自立した人間が良い成績をおさめる(つまりは上位合格する)ものですから。

 

実際に私は、これ(良い友人との出会い)に近い感覚になったことがありました。

それは、予備試験の口述試験の受験会場に入った時のことです。

番号札をつけられて体育館に入ると、民事系、刑事系、それぞれ百人近くがパイプ椅子に座っていました。皆、落ち着いた雰囲気で、自前の勉強道具に目を通していました。その光景は圧巻でした。その時、即座に感じたのが「私の仲間、全国にこんなにたくさんいたんだ」という感動でした。

互いにリスペクトする感覚が、なんら言葉を交わさずとも伝わってきました。こんな感覚、一人で勉強していた私にとっては、なかなか得られるものではありません。

トイレに行く人が、まとまって監督員に連れられて行動するときに、他の受験生の容姿だけでなく雰囲気も把握できました。

そして他の受験生の、表情が引き締まっていて聡明そうな顔に感動しました。そこには、知性の輝き、もっと言ってしまうと、情熱をもって生きる人間の輝きがありました。

 

ちょっと面白かったのが、口述試験が終わった直後の、周囲の受験生の雰囲気です。

それは、試験前に体育館で、待機していた時とは若干異なるものでした。

午前の口述試験終わった人は、午後組の人が会場に入る12時までは、別の教室で待機させられます。

口述試験が終わったばかりの人が、順番にパイプ椅子に座るわけです。

体育館の時とは並びが少し異なっていて、同じ部屋の(つまり同じ試験官にあたった)人が左右に一列に座るようになっていました。

そうすると、私の直前に試験を受けた人はすぐ右側に座っていて、私の直後に受けた人はすぐ左側に座ることになります。

ちなみに私の場合、すぐ右隣は、パンツスーツの若い女性で、すぐ左隣は二十代と思しき学生風の男性でした。

私は、2日目の勉強のため持参した本に軽く目を通しながらも、1日目の口述が終わって充実した気持ちに浸っていました。

すると、しばらくして左側に席についた男性が、椅子の前に足を投げ出していました。やや腐ったような態度でした。

その姿を見て、「あぁ、この人も、あの試験官から厳しいツッコみ、入ったんだろうな」と思いました。そして、その男性の様子に気づいたのか、私の右隣の女性も、左側(つまり私と、男性のいる方向)に目をやりました。

そして、互いに、その状況を察したかのように、両側の二人が私の顔を控えめに覗き込んでいるように見えました。覗き込む、というよりは、顔色をうかがっている、という表現の方が適切かもしれません。

私も、二人の態度から、自分たちの状況を察しました。

まず、予備試験の論文試験に受かった人であるまぎれもない事実から、相手に対する尊敬の念があります。と同時に、同じ部屋で直前直後に口述試験を受けたということは互いの出来不出来によって、多少なりとも試験官の心証が左右されているだろうな、という互いの利益相反的な立場を意識しています。

しかも2600人程度(論文式試験の受験者数)の中での相対評価ならまだしも、この6人の中での相対評価となると、結構シビアだよね、という意識。

とは言っても、合格率95パーセント程度という点からして、落ちることはよっぽどことだよね、という意識。

こういう意識が入り混じって、尊敬とも安堵とも緊張とも嫌悪とも言えない、なんとも言えない雰囲気が漂っていたように思います。

それが、私の普段の日常ではなかなか味わえないもので、とても貴重で、ユーモラスだったな、と思います。

 

 

学生

まだ、私はそういう体験したことがないので、夢のようです。

そういう先輩の発言から察するに、先輩は口述試験それ自体も楽しめた、と。

巷の予備試験の合格体験記では、口述試験は、もう二度と受けたくない試験だ、と異口同音に語られています。それだからこそ、先輩の口述試験の体験談は興味深いです。

 

先輩

はい、それはもう見たことのない世界を見させてもらい、そして感動の体験をさせてもらいました。

こうして、あなたに語ることで、あなたも口述試験追体験できると思うので、是非是非聞いてほしいと思います。

まず、俗に言う「発射台」(口述試験がなされる部屋に入る前の、小ぢんまりとした待機室)と呼ばれる場所での椅子も、なんの変哲も無いパイプ椅子でした。

司法試験もそうですが、俗世間の人は無味乾燥としたものに、色や形をつけたがるらしいです。

そして、ノックして試験官のいる部屋の中に入るわけですが、そこがまた見たことのない味わったことのない空間でした。

特に1日目は、(2日目のように1番ではなく)4番であったため、部屋の中に、激しい戦いの後の残骸のような雰囲気が漂っていました。

私はテンポよく返答をしたと思うのですが、試験官の方が「この子、どうやって誘導しようかな」と探りながら発言しているようでした。

私が適切な返答をすると、少し微笑んでくださり、嬉しかったのを覚えています。

やや威圧感はありましたが、適切な誘導のもと、私が返答をすると、試験官も法律の議論を楽しんでおられるのでは、と感じる瞬間すらありました。厳しさと優しさを兼ね備えておられると実感しました。まさに、パッションでした。

そして、1日目の刑事は、主査による質疑応答後、副査も結構長く話してくださいました。まず、その副査の表情を見た時、感動しました。誤解を恐れずに言うと、まさに「生ける神様」でした。それはもう、知性と人間愛にあふれておられる表情でした。

その副査の説明により、私がよく分かっていなかった箇所を明確にされ、とてもよい勉強になりました。

この経験から、刑事系は、判例と法的理論が何より大事なのだと、実感しました。

そして、「失礼いたしました」と言って退室する際、試験官の雰囲気を確認すると、私の直感ですが、とても充実しておられるように感じました。

こういう人が、日本の現在の司法を支えておられるんだな、と感動しました。

その感動は、試験終了後、泊まっていたホテルに戻ってきてからも続きました。

午前の試験で、私は6人中4人目であり、いい感じに先例が出来上がっていて、かつ後の人もまた同じ質問をされたのだろうな、と思いました。

そして、おそらく試験官は午後も同じ試験を行うのだろうな、と午後組の受験生と、試験官に思いを馳せました。そう考えると、試験官に対して頭の下がる思いになりました。

私も、もっともっと頑張ろう、という気持ちにさせてもらえました。

また、私みたいな受験生の、金太郎飴答案のような解答が次から次へと続くんだろうな、と思うと、試験官も時折コミカルに感じるのではないか、とまで思いました。ただ、(金太郎飴答案と揶揄される)論文と異なり、口述はリアルタイムでそれぞれの受験生が微妙に異なる解答をし、それに合わせて誘導していかなければなりません。それは大変だ、ということもすぐに察する事ができました。

そして何より、受験生によって、解答の内容やニュアンスが異なるため、一律に対応する事ができないことの難しさもある、と感じました。

 

学生

興味深いです。まだ程遠い夢ですが、口述試験に興味が湧いてきました。

2日目の感想も語っていただいてよいでしょうか。

 

先輩

もちろん。是非是非語らせてください。

2日目の民事は午後でした。そしてなんと、順番が(9人中)1番目でした。

試験官は、おそらく裁判官でした。

明らかに、俗世間とは異なる雰囲気を醸し出していました。

物腰が豊かで、表情も変えないのですが、頭がキレキレなのが、表情を見ていて伝わってきました。

そして、途中私が答えに詰まると誘導してくれるのですが、それでも正解にたどり着けないところがありました。そんな時も、全く嫌な顔をせず、会話を進めてくれました。

そして、後半の(訴訟の当事者の主張反論の具体他的内容を聞く)問題に入った祭、少し楽しそうにしている、と感じました。生き生きとしておられました。

「そうか、彼にとっては、これが仕事なんだな」と後から思いました。ただ、現場では「すみません。私はこの状況、楽しめません」という心境でした。

2日目は午後組なので、試験が終わるとすぐに(待機室で待たされず)ホテルに帰れましたが、やはり余韻はホテルに帰っても続きました。

「ああいう人が、現在の日本の司法を支えているんだな」という感動が、ありました。そして、あの浮き世離れした雰囲気から裁判官の職責の重さを感じると同時に、それを全うするために普段の生活でも付き合う人とか行く場所とか、いろいろと制限があるんだろうな、と彼らの日常生活に思いを馳せました。

 

学生

合格者の皆さんは、異口同音に口述は辛かった、と仰りますが、先輩は試験そのものは、楽しかったと。では、試験室に入るまでのことで、辛かったことはありませんか。

 

先輩

はい、私は、試験官よりも、監督員のようが、よっぽど怖かったです。

まず、人数が多い。それに加えて、ピリピリしています。

体育館では、(監督員の)人によっては、なんとなくジロジロ見られているように感じることもありました。

また、待機室から試験室にいたるまで引率されるのですが、私は1日目、一番奥の部屋だったので両側に(それぞれの部屋の前にいる)監督員がずらりと並んでいる廊下を歩かされました。

その雰囲気が、まさに「地獄へようこそ」といった感じでした。

試験官との口述試験自体は、毎年受けても良いと感じましたが、あの「地獄へようこそ」の廊下は二度と歩きたくないな、と感じました。

 

監督員は、試験場で何か不正がなされると、何らかの責任を負うでしょうし、かといって自分に大きな裁量があるわけでもないので、板挟みのようなストレスがあるのだと感じました。

他方で、試験官は、試験の進行については大きな裁量がありますが、次から次へと続く受験生の必ずしも的確ではない回答に対して、頭をフル回転して誘導、質問していかなくてはならないので、本当に体力的精神的に大変だろうな、と思います。

人それぞれ、耐えられるストレスが違うんだろうな、と思いました。

 

私は、試験場で、試験官の方に共感できたので、考え方や価値観としては試験官の方に近いのかな、と感じました。

 

学生

なるほど。

勉強になります。

社会の縮図が、垣間見れますね。

 

 ーーー予備試験口述試験の再現(刑事)はこちら

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司法試験に落ちたあなたへ(5)【自分と人間との区別について】

司法試験に落ちたあなたへ、エピソード1についてはこちら

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【自分と人間の区別について】

 

後輩

先輩はモチベーションについてどうお考えですか。

 

 

先輩

モチベーションについて。自分は変われる。なぜなら、自分も人間の一人であるというのは紛れも無い事実であるから。

 

予備試験合格し、その後本試験を受験しました。

そして、先に予備試験経由で合格した方から、『もう、普通に勉強していたら受かるから、余計なことをやらない事が大事』と言ってくださり、勇気をもらいました。

そして、『若くて優秀』と言われる予備試験合格者の方とも、お会いしてとても励まされました。

それは、本当に良かったと思います。

しかし、私個人の勉強について、予備試験対策でしたことに加えて、本試験対策として、さらに勉強をしなければならないことがありました。

 

 

最近、弁護士×IT、とか、弁護士資格プラス何か一つの能力があると、良い、と言われる傾向にあると思います。私も、そう思って、受験時代に試験勉強以外にいろんな事をしました。例えば、小説、英語、塾講師、簿記、などです。

でも、試験に合格する最も近道は、やはり試験勉強に打ち込むことだった、とかなり時間が経過した段階で気づきました。

それに、試験に合格した後ならまだしも、試験勉強期間中に、他のことに打ち込んでしまうと、試験勉強に支障をきたす場合もある、と後になって気づきました。

なぜなら、自分の趣味としている事は、試験勉強と相反する行為である可能性もあるからです。

これは説明の難しいところですが、一言で言うと、『自分』という存在と『人間』という存在は、似て非なるものである、と感じるようになるからではないか、と思います。

勉強というのは、それに打ち込んでいると、大抵の場合には、『自分』の無知さを思い知るため謙虚になります。でも、それが、『人間』としては、正常な状態である、と私は思います。

他方で、『これがやりたい』『あれがやりたい』というのは、自分の個人的な願望や欲望からきている側面が強く、あまりにそれを強く押してしまうと、『人間』として勉強に打ち込むことが困難になってしまう場合があると思います。実際に私がそう感じた時もありました。

やはり、『自分』も一人の『人間』に過ぎない、というまぎれもない事実を謙虚に受けとめて、日々、できる限り真摯に生きることが何より大切である、と思います。

そして、そう考えて勉強に打ち込んでいると、たとえ成績が良くても、それは日々勉強に打ち込んだ『人間』として当然のことだ、と思えるようになり、『自分』の存在を強調した、つまり我を押し通すような下品な真似をしなくて済むと思います。

 

後輩

なるほど。

『自分』と『人間』の区別ですか。確かに、『人間』という存在を深く掘り下げていくと、自分であって自分でないような、気持ち悪い気分になります。

その区別について、もう少し詳しく教えて下さい。

 

 

先輩

 

『人間』ならば誰しも、何かの試験に向けて一生懸命努力して勉強したら一定の効果を上げることができます。

そして、『自分』も『人間』の一人ですから、試験に向けた努力をすると、何らかの効果は出るわけです。

それを当然のこととみなして、勉強を日々継続していくと、その過程に本試験の日が来て、それなりの成果を出すことが出来ます。

そして、その時出た成果というものは、『人間』が勉強した当然の結果ですから、『自分』としては、『人間』の一人として、誇りに思って良いことですが、『自分』として自慢するべきものではありません。このようなことから、一生懸命に勉強した人は滅多に自慢をしないという事実も、納得がいきます。

 

 

ただ、社会に出ると、単に『人間』として勉強ができるだけではなく、『自分』なりの感性や考えを形にすることが重要視されます。

『人間』として勉強ができることに加えて『自分』なりのアイデアを持っていること、それを形にして提示する実行力が要される、ということです。

 

『自分』という存在と『人間』という存在の区別を、上手く切り分けて自分の中で使いこなすことが、勉強する上でも、社会で生きていく上でも、重要だと思います。

そういう事が個人的には、『思いの他』重要でした。

司法試験に落ちたあなたへ(4)続きパート2

司法試験に落ちたあなたへ(4)続きパート2

 

後輩

自分は勉強するたびに、自分はまだまだだ、と思い知らされるばかりで、合格後の生活が、想像できません。

でも、法曹界に長年いる法律家の方々や著名な学者さんは、将来何がしたいのか、考えておいた方が良い、と盛んにのたまわれます。

目の前の勉強に打ち込むだけじゃ、ダメなんでしょうか。

何か、高潔な目標とか、あった方が良い、というか無ければダメなのでしょうか。

合格した方々は、決まって、社会正義の実現というようなことをおっしゃいますよね。私はまだ、自分のことに精一杯で、社会正義の実現ということにまで、思考が及んでいません。

図書館で勉強していて、騒がしい人がいると、彼らはルール違反をしていて、社会の規範を害しているな、と感じるので、たまに係の方に言って注意してもらうことがあります。自分の生活で思いつく、社会正義の実現というのが、こんな小さな事しか思いつきません。

先輩も、自分の欲望だけではなく、社会正義の実現を考えていることが伝わってきます。

合格するって、ズバリ、どういう感覚ですか。

 

 

先輩

『合格』というのは、あくまで当該試験において、一定の水準に達していたということの証明であって、人間として素晴らしいことの保障ではありません。

夢の無いようなことを言うと、よく、巷で言われる、勝利の美酒など、無いのです。

同時に、私も受験生の頃、『合格の味』ってどんなものなのだろうか、とよく考えたので、あなたの疑問もよく分かります。

実際に、自分が合格しているという事実から、『合格の味』を言わなければならない状況になったとして、強いて言うなら、『無色透明』でした。

特段、心境の劇的な変化というのは無くて、物理的な状況の変化を考えた、というだけでした。

あぁ、来年の五月は、もう試験を受けなくて良いんだな、そのためのホテルと交通手段を予約しなくて良いんだな、という感覚です。

受験勉強が終わっても、勉強自体がまだまだだ、という感覚は、拭えないので、自分の実力が急激に上がった、という感覚はありません。

ただ、勉強を試験日まで継続できた、という紛れもない事実に対しては、幾分かの自信と誇りをもてるようになっています。

そして、世間一般の人を見渡すと、そこまで勉強できる人間が、驚くほど少ないということに気付かされます。

そういう時に、この世の中がもっと良くなるためにな、世間に生きる人間それぞれが、自分の人生に一生懸命に生きられることが必要なのだ、と実感します。そうして、究極的には、一人一人が自己実現を果たした上で、社会全体の調和的発展を望む気持ちになります。

そういう自分の心境と、司法試験において要される能力として身につけた妥当な問題解決能力とが、絡み合って、『社会正義の実現』という言葉が出てくるのだと思います。

司法試験で要求されるものに応えられる能力を身につけた人間は、いつのまにかにか社会の要請に敏感になり、それに応えようとする人間となっている、ということです。自分のやりたい事、というものを、社会の要請とセットで考えられるようになっているということに気づきます。

そもそも、司法試験、というものが、大学入試などと異なり、個人の能力を図るものというより、法律家を養成するための通過点として提示されたものだと、文面からではなくて実体験(受験勉強と本試験の受験)によって理解できるようになったように感じます。

もっともそういうことは、勉強を継続していくうちに自覚するようになるものだと思うので、最初から、無理に意識しようと思わなくて良いと思います。

 

後輩

先輩も、やはり勉強していくうちに、『社会正義の実現』のため、という考え方になってきた、ということですね。

 

 

先輩

はい、そうです。

私は、司法試験の当日、試験会場のホテルに宿泊していたのですが、そこで受験に疲れたのか、自分が自分として生きている感覚というものが、無くなっていることに激しく動揺しました。

他の人には、なかなか理解されないかもしれませんが、自分という感覚が無いことに、動揺したのです。

そして、それ以来、『確かな自分』という存在を常に疑うようになりました。

考えてみれば、不思議だと思いませんか。

私達は、『自分』という人間の人生から逃れられないにも関わらず、『自分』というものの正体、『自分』が何者であるか、について、何も知らないのです。

世俗に生きる多くの人は、私のこの問いが、よく分からないと言う人も多いと思います。

でも、あなたのような、勉強に打ち込んでいる人は、少なからず感じたことのある疑問なのではないか、と私は思うのです。

 

後輩

私は先輩の問いには至らないかもしれませんが、何となく分かる気もします。

社会的地位が高く、法律の専門家である、弁護士か検察官になりたいと思って受験勉強を始めたわけですが、本試験の問題を一科目二時間と時間を計って解いて、答え合わせをしていくうちに、こんなに辛いことがしたいわけではなかった、という気持ちになりました。

自分の学習開始当初の決断と思い込みが、誤っていたとしか思えない、と思うこともよくありました。

だからと言って、他に取り柄があるわけでもないので、勉強を継続するしかないという現実に直面して、嫌になることもあります。

別のことをやっていたら、それはそれで、『社会的地位高い人間としての法律家』という評価を自ら逃したことを後悔していたような気もします。

 

先輩

まずは、目の前の勉強に対して一生懸命取り組む。そして、それを試験の当日まで継続する。

受験生としては、まずはそれが出来ることが大事だと思います。

そうすると、自ずと社会に対する考え方なども変化してくるようになると思います。

余談ですが、あなたのような若い受験生としての考え方に触れて、昔の自分を思い出すこともあります。

私が、昔、本試験を受け終えた後、ようやく一年が終わり、また新たな一年が始まり、自分はまた一年歳を取るんだな、とよく思ったことがありました。

それは、自分の誕生日をむかえた時でもなく、新年をむかえた時でもありませんでした。

ズバリ言うと、それは五月にある本試験を受け終えて、いつも通っていた図書館に戻った際、桜の木が青々と生い茂っている姿を見上げた時でした。

試験直前期は、事故を起こしたり、風邪をひいたりしないように、大事をとって家で勉強していたので、若葉をつけ出した桜の木を見る機会があまりありませんでした。

冬の間、図書館に通い詰めていた時期の、裸の状態の枝が私にとっては、見慣れた桜の木の姿でした。

四月の満開の花をつけた時期には、受験生としてはシビアな時期にあたるため、ピンク色に染まった華やかな景色を冷めた目で見つつ、サッと通り過ぎていました。

その後、桜の花が散ると同時に、若葉をつけ出していたのは認識していました。

ただ、試験が終わって、しばらく休憩期間をもうけた後に、図書館に行くと、見慣れたはずの桜の木が、大きく変わっていることに気づいたのです。

そして、その生命力に圧倒されました。

自分の受験勉強の一年が終わったことを実感すると同時に、また新たな一年が始まっているんだな、と感じました。

『時間』といものは、辛く苦しい時には長く停滞されるけれど、ぼーっと生きているときには、待ってはくれないんだな、と思いました。

そして、まさに今、お若い受験生であるあなたを見て、私も歳をとったな、と実感しています。

二十歳前後の若い時には、自分の未熟さに嫌悪感を覚え、早くちゃんとした大人になりたいな、と思っていたのですが、いざ大人になってみると、若い頃の自分が愛おしく感じるようになりました。

そして、あなたのような若い人が羨ましくも思えるようになりました。

人間誰しも歳をとりますから、年齢を重ねることが悪いことだとは思っていません。

ただ、どういう思いをもち続けるか、というのは、人間としてとても重要だと思います。これは若い人も同じです。

若い頃、真摯に向き合ったことというのは、歳を重ねてから、何らかの形で効いてくることも大いにあり得ます。

 

後輩

そうですか。悩みの多い毎日ですが、それも悪くない日々ということですね。

不安で眠れない日も多くあるので、すぐに自分の悩める日々を肯定することはできませんが、何とか勉強を継続していきたいと思います。

先輩、ありがとうございました。

 

ーーー

先輩

蛇足ですが、しばし、思うところを語らせてください。

司法試験をはじめ、各種試験において、日本の教育の問題点が顕在化しているような気がします。

日本の難関試験は、良くも悪くもペーパー試験一本主義なのですが、社会に出たら、社交性が暗黙の了解として、必要とされます。

司法試験の受験業界においても、そういう試験そのものの対策と法律家として要される能力に、多少なりとも差異があると思います。

その差異が大きいと感じるか小さいと感じるか、人それぞれです。

 

ーーーーーー司法試験に落ちたあなたへ(4)はnoteにて公開

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司法試験に落ちたあなたへ(4)続きパート1

司法試験に落ちたあなたへ(4)続きパート1

 

後輩

でも、何らかの意味で『立派な人』になろうとして、猛勉強するわけですから、その試験に合格した人が、あまりに『普通の人』だと、なんだか夢がないように感じるんですよね。

 

先輩

あなたのおっしゃること、分からないでもありません。

日本では、制度上、難関試験は誰でも受けられるようになっています。

そして合格すれば、その後の人生が開かれるということになっています。

でも、世間的に、『合格者』となった人間は気づくのです。自分が、いわゆる偉い人になったわけではない、と。

『合格者』という立場を得て、振舞いが変わる人もいますが、多くの人の内面はすぐには変わらないと思います。

ところで、日本は、形式上、身分制度がありません。

でも、実質的には、経済、教育、生まれ、の点において、明らかな格差がある。

それを受け入れた方が、双方ともに幸せになるんじゃないかな、と思います。

受け入れないと、上の方の人間は、下の方の人間に対して、何でこんなことも分からないんだ、同じ人間なら分かるはずだろ、と苛立ちを隠せないと思います。そして、下の方の人間も、上の方の人間は偉そうだ、同じ人間なのに、ということになります。

これが、明確に、階級制度というものがあると、上の方と下の方は、行き方考え方が違うのだから、という考えになり、互いの利点と欠点を認め合えるのではないか、と思うのです。そして、上の方は、高い地位が保障される代わりに、社会的義務を負い、弱い者いじめはご法度なのだから、と思うのです。

念のため言っておきますが、ここでの、『上』とか『下』とかいうものは、あくまで数値上のものであって、人格的な素晴らしさをいうものではありません。

学校の成績が悪くても、経済的に恵まれなくても、素晴らしい人間は大勢いると思います。

そして、『司法試験合格者』という立場になった時、その過程で、おそらく貴重な学びを得ているでしょうから、それを何らかの形で社会に還元しなければいけない、と思うのです。

これは、社会的地位が高い者が負う、道徳的責任(欧米では、noblesse oblige)といえると思います。

そういう立場を得たら、あまり卑下し過ぎず、毅然とした態度で自分の価値を社会に提供するのが、理想だと思います。

ただ、なかなかそのような理想通りになっていないのが現状と言えそうです。

この話は、あなたの言う、合格者が『立派な人』として振る舞って欲しい、という希望と関連すると思います。

 

後輩

先輩のお話、試験勉強を超えているようでいて、試験勉強と密接に関連するように感じて、興味深いです。

受験勉強をしていると、この世の中の価値観と、自分の価値観が異なっているのを感じずにはいられなくなりました。

 

先輩

ある特定の試験勉強に打ち込む受験生とはいえ、この世の中を生きる一人の人間として、世間という存在から、逃れることはできるません。

受験生、そしてゆくゆくは合格者になる人間として、どういう生き方を心がけるべきか、について私は思うところがあります。

結論的にいうと、自分の身につけた能力を社会に還元する事を念頭においておかなければならない、ということです。

このことは、何も司法試験だけに限らず、難関試験に受験し合格する者について言えることだと思います。

高校の頃のエピソードに遡ります。

高校生の頃、私は、まずまず勉強が出来る子だったのですが、同じクラスの同級生に、「頭良いね、ずるい」というような事を言われました。

確かに私は、中学生の頃体育が4以外は5の成績(オール51足りない成績)を取って、学区外の県立の自称進学校に通っていました。地元の県立高校には、学区制というものがあって、学区外から受験する人間が(成績順で少数に)制限される、という状況でした。

私は、自分を含め、人間が勉強が出来るようになるのは、ひとえに本人の努力によるものだと思っていたので、『ずるい』という表現は的外れではないか、と思い驚きました。

 

むしろ、勉強せずにのうのうと生きている人間がズルい、と思っていた私にとっては、寝耳に水でした。

そもそも、学区外という枠で高校受験をした私にとっては、中学時代にオール5位を取らないと進学校に受験できないと思って勉強していたのに、高校に入学すると、そこまで勉強熱心な人間の方が少数派でした。

そういう少数派の呪縛から逃れたたくて、今どきの娯楽に関心をもったりしていたのに、周りから見れば、それが『ズルい』の一言で表されるものだったのです。

今でも、あの時のことは、とても印象に残っています。

ただ、今ならはっきりと思います。『じゃあそう言う貴方はズルくないのか』と。

勉強に打ち込むでもなく、部活に打ち込むでもなく、(おそらく何か悩みはあるのであろうが)少なくとも何ら打ち込む対象をもたずにのうのうと生きているではないか。さらに、そうやって勉強している人間の足を引っ張ろうとするのは、果たして『ズルくない」人間であろうか。

そう思った後に、ふっと、そんなこと当たり前だよな、と思うのです。

今だから分かることですが、この世の中というのは、大衆によって構成されていて、自らの意思決定によって生きようとする人間は、常に何らかの迫害に遭う、という構造になっていると思います。

 

大人になって振り返った時、妙にその『ズルい』という発言に納得しています。

それは私が受験生の時、司法試験合格者が、威張り散らしているように見えた時、『感じ悪い』と思うことがあったからだと思います。

そして、その感情が湧いたのは、能力を身につけた人間が、その能力を社会に還元せずに、世俗的な娯楽に身を投じようとする姿勢が垣間見えたから、だと思います。

合格者が、熱心に受験指導していたり、自己研鑽に励んでいたりしたら、『ズルい』とか『感じ悪い』とは思わず『さすがだなぁ』と感心したと思います。

これと関連して、『平等とは何か』について考えさせられたエピソードを語りたいと思います。

今度は中学生の頃まで遡ります。

中学生の頃、フラフラしていて何がしたいのか分からない男の子が同級生にいました。勉強に打ち込むでもなく、スポーツに打ち込むでもなく、かと言って反抗的な態度で不良のように振る舞うでもなく、何を考えているのか分からない子でした。

彼よりも、もっと不思議だったのは、学校の先生が、特段、彼を咎めなかった事です。

『もっと、しっかりしなさい』とか、『もっと、勉強とか、しっかり頑張りなさい』とか、そういう叱咤激励をするどころか、どこか甘やかされているように感じたのです。

ある時、その子が、何か学校に持ってきてはいけないゲーム機を持ってきていて、その電子音が教室に鳴り響きました。先生は、鬼の形相で、誰か名乗り出よ、と言いました。そして、しばらくすると彼が名乗り出ました。

その時、先生は、怒るどころか、彼が正直に名乗り出た事を、皆の前で褒めたのです。

私は当時、腑に落ちないな、と感じました。

今、大人になったから分かるのですが、おそらく先生は、その子がそれ以上『出来の悪い子』にならないように、配慮していたのだと思います。

余談ですがその子は、大人(三十歳以上)になって、とある犯罪を犯して逮捕されていました。(犯罪の内容は割愛します)

私はその時、やはり自分の人生に方向性をもっていない人が、犯罪を犯してしまうのだなぁ、と妙に納得しました。

また、中学生の頃の別の場面において、私が掃除を真面目にしていなかったときは担任の先生に怒られたのに、別の同級生の男の子が真面目に掃除をしていなかったことについては、同じ先生に怒らなかった、ということがありました。

平等だ平等だ、と口ではのたまう学校の先生も、無意識のうちに、目の前の生徒を選別していたのだと思います。

この私の見解に対して、おそらく先生方は、教育現場の人間として、『それぞれの生徒の個性に応じた扱いこそが平等』という事を言うと思います。

しかし、掃除を真面目にするか、という点において、能力の有無で選別すべきでしょうか。

小学生、中学生の頃、人間は皆平等だ、と習うのですが、机上の空論と、現実は違うな、と思っていました。特に、私が通っていたような地方の公立中学校においては、それが顕著に表れているように思います。

そして、子供の頃の私を含め、この世の中の多くの人間は、『平等』というものの意味を取り違えているな、と感じます。

そして、何より大事なことは人はそれぞれ、能力、適性において異なる、という事実を認識する、ということだと思います。

端的に言うと、『この世は不平等であることを受け入れる』ということが大事ではないか、と私は思います。

少なくとも、勉強に打ち込む人間は、世俗的な下品な趣味は、控えた方が良いと、私は思います。

 

後輩

先輩のお話を聞いていたら、合格者って、そのカテゴリーこそ『合格』という名前のついたもので呼ばれますけれども、人間の完成形のようなニュアンスのある『合格者』というよりは、未だ人生において何かを探究し続ける『求道者』のようですね。

 

先輩

はい。そういう理解もあるかも知れません。

今だからこそ言えますが、私は、十代の頃、自分が世界の中心であるかのように考えてしまうことが多々ありました。

ただ、勉強が進むにつれて、自分は世界の中のごく一部に過ぎないのだ、と考えるようになりました。

この点は、精神状態が成長したな、と感じます。

この先、どんな難関試験に合格しようと、どんな偉業を成し遂げようと、自分が山の頂に立つことはないのだ、という事実を、謙虚な気持ちで前向きに受け止めることができています。たとえ、自分が山の頂に立っているように見えたとしても、実際はそうではなく、自分は世界の一部であるのだ、ということを肝に免じておくべきだ、と思います。

その方が、良い状態で物事に打ち込めるように思います。

 

ーーーーー

後輩

先輩の話を聞いていると、何だか、『試験勉強』という一見すると人生のごく一部の時期の行動が、人間の本質に関わるものなのだな、と感じるようになりました。

『試験勉強』において、こんなに人生というものの考え方、価値観が関わるのだな、と驚いています。

もはや哲学ではないか、と感じるほどです。

 

先輩

私も、試験勉強期間中、その期間が長かったこともあって、哲学的な事をよく考えました。

そして、それは時に最短ルートでの合格の障害になったものの、私の人生にとっては決して無駄ではなかったと思っています。

むしろ、試験の合格に直結する勉強と同じくらい価値のあるものであったと思っています。

受験生であった頃、一時期、ある事情によって、私は試験が受けられなくなるのではないか、ということがありました。

でも、私は、その時、『司法試験というものが、この世から無くなったとしても、今自分がやっている勉強を続ける』と思うほど、勉強中心の生活をしていました。もう、ここまでくると、哲学的だな、と思いますよね。

でも、実際、司法試験に受かっている人、特に上位で受かっている人の多数は、この世から司法試験というものが無くなってしまっても、何らかの勉強に没頭できた人であろう、と私は思うのです。

勉強というのは、客観的に見ると『試験のため』であるのが当然のように思えますが、勉強に打ち込んでいる当事者としては、もはや『自分の人生そのもの』という感覚になっているのです。

それはある意味、私の人生哲学ともいえると思います。

 

ーーーー司法試験に落ちたあなたへ(4)はnoteにて公開

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司法試験に落ちたあなたへ(4)

司法試験に落ちたあなたへ(4)

後輩

先輩はセンター試験利用方式で、大学に入学したという事ですが、周囲とのギャップがかなりあった事は、容易に想像がつきます。

 

巷で批判される、指定校推薦で入っている人も多い私立大学(文系)において、推薦組と御自身が同じ学歴に扱われることについて、抵抗はありませんでしたか。

私は、他大学の一般入試を受けて、滑り止めとしてセンター試験利用方式で今通っている大学に願書を提出して、結局今の大学に入学することになりました。

指定校推薦で入学した人を見ると、自分の努力で入ったわけでもないのに、のうのうと生きていて、少しムカッとする事もあります。

 

先輩

私も、あなたが言うように、大学生時代、指定校推薦の子と同じ学歴になるのはちょっとなぁ、と思っていました。

でも、今では不思議と、その現実を受け入れられるようになっています。

 

同じ大学に入学しても横一例じゃないんだ、という事については、案外知っている人は知っています。もしかしたら、多くの人がいずれかの立場で身をもって感じた事かもしれません。

そして、私立大学も経営上一定数の学生を確保するため、指定校推薦を利用せざるを得ないという事実にも、この世の中を生きる大人として納得しています。

そして何より、勉強に打ち込んだことの成果は、本人の内面にしっかりと備わっている、というのも事実です。

さらに、実際に指定校推薦で入学した人達が、勉強もせずにのうのうと生きてきたなら、そういう人は大学に入学した後も、虚しい気持ちになって自分自身の事について悩んでしまうんじゃないかな、と思います。

もちろん、指定校推薦で入学した人でも、そうではない人もいるとは思います。

御本人に聞いてみないと分かりませんが、人間の内面というものは、その言動の節々に表れるのだ、という事も紛れもない事実です。

実際に大学時代、人()に対して、公然と悪口を言っている人がいました。私は、あまりの幼稚さに呆気に取られ、何も言い返さなかったので、その場での醜い争いは避けられましたが、その時の事は今でも鮮明に覚えています。高校時代に同じクラスだった人や同じ塾のクラスだった人等の、私の周りにはいなかった部類の人です。

そして、そういう発言をした人が、指定校推薦で入学した人間であった事は、偶然ではない気がするのです。

それについて、当時は腹立たしいことだと思いましたが、社会の縮図を見たような気がして、今となっては良い社会勉強となった、と思っています。

 

後輩

なるほど。楽して生きているように見える人は、それなりの報いを受けている、ということですね。

 

先輩

はい、そうです。

それに、あなたの言う『楽して指定校推薦で入学した人』も、のうのうと生きているように見えるだけで、内面では、どんな悩みを抱えているか分かりませんよ。

勉強を一生懸命した人間が、自分を誇らしく思えたり、自分に自信をもてたりすることを考えると、楽して外形上の肩書というものが得られたとしても、それほど満足感は得られないのではないかな、と思うんです。

あなたが、大学受験まで、一生懸命勉強して得られた内面の成長というものは誰にも奪われるものではありません。

 

後輩

私は高校時代、理系クラスにいました。

法律も論理的と言われる学問ですから、理系から法学部に来た人の方が、有利である、というのを聞いたことがあります。

先輩は、どう思われますか。

 

先輩

私も高校時代理系クラスにいて、大学も理系の大学を受験したので、他の法学部生よりも数学や物理を勉強した時間は長いと思います。個別の知識についてはもう忘れてしまいましたが、論理的思考が必要と言われる科目について勉強していたため、論理的思考能力が、養われている、とも言えます。

しかし、私の感覚としては、法律の論文試験で求められている論理的思考と、数学的な論理的思考って、少し違うな、と感じていました。

若干、法律の論文式試験の内容にまで踏み込むことになりますが、私が実際に感じたことで重要だと思うことなので、聞いて下さい。

私は、法律の科目の中でも、論理的と言われる、刑法が体感としては得意と感じていたのですが、毎回のように良い成績取れるとは限りませんでした。

この原因を分析したところ、たとえ論理的と言われる刑法であっても、最低限度の判例、学説の知識は必要であった、ということだと思います。

 

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試験に受かる人は特別の人か。

 

後輩

試験に落ちて思ったのですが、試験に受かる人というのは、やはりとても頭の良い人なのではないか、と思うのです。

 

先輩

結論的に言うと、試験に受かったからといって特別頭が良い人である、というわけではない、と思います。

ただ、一度試験に合格してしまえば、世間では少数派の既得権者となるわけですから、自分が特別頭が良いと評価されて、それを否定したがらない人が一定数いるのも頷けます。

そこには、『モテたい』『相手より優位に立ちたい』などの、世俗的な人間としての思惑があるのでは、と疑わずにはいられません。

他方、私個人の意見としては、難関試験に合格したという事実は、ある意味、『普通の人間であること』の証明なのではないか、と思うのです。

考えてもみて下さい。最難関と言われる予備試験ですら、自分の他に同期の合格者(平成三十年の合格者参照)が四百人以上いるんですよ。

それって、自分と同じ又はそれ以上の合格答案を書けた人が少なくとも数百人いる、という事実を表していますよね。

しかも、そういう合格者が毎年何百人か輩出されているのです。

そういう、一定の集団の中の一人に過ぎない、と考えると、少なくとも当該試験においては『唯一無二の天才』ではない、と言えます。

ただ、当事者として受験している時点においては、自分の勉強に精一杯で、こんなことを考える余裕はないと思いますし、実際もそうでした。

自分の勉強が上手くいかないと、『自分も天才だったらなぁ』と考えてしまい、意気消沈することも多々ありました。

試験に合格した後は、皆、試験日まで努力できた、という自分の体験に自信をもてるようになるので、傍から見ると天才であるように見えるのかもしれません。

でも、実際には、どの合格者も、程度の差こそあれ、勉強中心の生活であったと思います。

それに、もし自分が、アインシュタインエジソンのような『天才』と呼ばれるような人なのであれば、他の人が思いつかないような特別な発想をしてしまって、(予備試験なら)合格者四百人余りが書くような答案を書けないんじゃないかな、と思うのです。

 

後輩

『合格者こそ、普通の人間』という発想、なかなか新しいと思います。

ただ、それが本当ならば、試験に合格した人は、非凡とか天才である、という巷の意見は、事実とは真逆のことを言っている、ということになりますよね。

なぜ、そんな現象が生じているのでしょうか。

 

先輩

人間、希少価値が高いものについては、その仕事を困難なものとみなす傾向にあると思います。

 

そして、予備試験、司法試験も、(特に予備試験は)合格率が低いですから、一般に難関試験と言われています。

すると、巷の意見としては、合格する人、特に短期合格する人は頭が良いのだ、ということになるのだと思います。

ただ、それは、自分と自分の周りの人間の考えから結論づけられた、主観的評価に過ぎないと思います。

 

たとえば、名門の進学校に通う高校生Aの心境と、地方の公立高校に通う高校生Bの心境の違いを考えてみましょう。

高三の夏の段階で成績が同じくらい、例えば東大模試D判定でも、Aさんは勉強したら東大に行けるという意識をもつことができて、Bさんは志望校を変更しようか、と考える傾向にあると思います。

これは、周囲の環境から受ける心理的障壁である、と思います。

周りが皆、東大や国公立の医学部を受験するという環境にいると、自分も受験して当たり前、そして勉強したら成績が上がって合格ラインに達して当たり前という感覚になるのだと思います。

そして、そういう前向きな心境でいると、当然のように勉強が捗りますから、成績も伸びて合格しやすくなるのだと思います。

 

そう考えると、難関試験を受験するときには、巷の意見を間に受けてはいけない、という結論に達すると思います。

巷で言われる試験の難易度を気にしてしまうと、やはり心理的ハードルが生じてしまうからです。

巷の人間というのは、皆が皆、試験問題はもちろん受験界に精通しているわけではありません。

巷の噂というのは、いわば実体の無いバブルのようなものです。

 

そういう、虚偽の事実に、いかに惑わされないか、ということも、精神状態が試験勉強に影響することを考えると、実力のうちだと私は思います。

難関試験の受験勉強をする際には、周囲の親しい友人も同じ試験を受験する状況である、というのが理想だと思います。

 

そして、そういう難関試験に短期合格する人というのは、皆驚くほど、『普通の人』だと思うのです。こういう、『合格者は普通の人』という事は、合格者本人のインタビューなどでも、よく言われていることです。

 

後輩

なるほど、そう言われてみればそうかもしれません。

でも、実際、試験に受かっている人って、美男美女が多いですよね。

 

先輩

それは、私も周囲を見ていて感じます。

ただ誤解を恐れずに言えば、そういうことすらも、合理的だ、と感じるのです。

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司法試験に落ちたあなたへ(3)

司法試験に落ちたあなたへ(3)

【合否の精神的区別について】

 

学生

先輩のお話から、受験生という身分と、合格者という身分で、世間的には扱いに差異があるけれど、当事者の内心としては、かなり類似しているということが分かりました。

私はまだ、その違いがよく分かりません。

というより、それを類似のものとして扱う勇気がまだありません。

そういう考え方をするということは、取りも直さず、思考の面で、世間から隔離されるということにつながるような気がしてならないのです。

その考え方に対する、対処と言いますか、落としどころのようなものがありましたら伺いたいです。

 

先輩

はい。

私も、あなたのように若い受験生であった頃は、合格、というのは世間的な評価を得ることであって、全く別の人間になることだ、と思っていました。そして何か色や形がある、物理的なものをつかみ取ることだと思っていました。

それは半分正しくて、半分間違っていました。

合格というのは、確かに世間の評価を得ることなのですが、それを自分が実感することはあまりありません。他人の評価というものすらも、他人のものなのだ、と気がつきました。

また、合格して受験勉強が終わったからといって、物理的に同じ人間である以上、社会的に別の人間として扱われることはありません。別の人間になる、というのはあくまで自分自身の感覚的なものです。それも、合格したから、というよりは勉強したから、だと思います。

人間は新しい事を学ぶたびに新しく作り変えられているように感じるものです。

ただ、語弊を恐れずに、ここで私が強調したいのは、物理的な現実よりも自分の感覚的なものの方が、自分にとっては正解だと言える、という事です。

私の感覚としては、合格によって色や形のあるものを掴みとったという意識はなく、自分の想像していた物理的なものに関して、虚無感を覚えました。

ただ、勉強を継続していく中で、自分の意識がハッキリとしてくるのが分かりました。特に問題を解いていて、論文の書き方が分かった時などに実感しました。

そこには、ただ自分との対話があるだけでした。

 

以前にも言ったかもしれませんが、まだ二十歳前後の受験生だった頃、私は、合格というものを得るためには他の受験生を敵視して押しのけて自分がのし上がらなければならないと思いこんでしまった面がありました。この思い込みは、周囲の大人の影響が大きいと思います。実際に、『(司法試験)受験は競争だから』という旨の発言をする大学教授もいました。

しかし、実際に合格してみて、そんな心境で勉強していたら受かるものも受からない、という事が分かりました。なぜなら、そういう心境では、目の前の問題を解く、という事に集中出来ないからです。

試験に合格する、ということは目の前の試験問題が一定程度解ける、ということに他ならないのです。

そうであるならば、世間的な評価を気にすることは試験において本来不要なはずです。

にもかかわらず、試験の合否において世間的な評価がつきまとうのは、ご存知の通りです。

当事者としては、こんなにも違和感を覚えているのに、です。

とすれば、世間的な評価、というものは試験に合格した自分のものではなく、むしろ世間のもの、と考えられませんか。

少なくとも、私は、そう思うようにしています。

世間の評価を得ることを諦めて、自分のやりたいことに打ち込むという事を大切にして勉強していれば、自ずと成績も上がり、本試験での結果もついてくるのです。

そして、本試験の日が終わっても、日々、学ぶこと、そして世間と安易に迎合しないこと、は続くのです。

そう考えると、試験勉強というものは、もはや合格云々ではなく、人間としての生き方そのもの、と言えると私は思います。

 

こういう試験合格に対するイメージを早い段階で持つことができ、勉強を継続できた人は、早く受かるでしょうし、誤った認識をもったまま闇雲に答練を受けたり参考書を読んだりした人は、合格まで長い年月がかかるだろうなと思います。

ちなみにですが、二十二歳で合格した人が楽をしていて、三十五歳で合格した人が苦労している、とは一概には言えない、ということを私は知っています。

 

余談ですが、私自身は、二十代半ばまでに受からなくて、自分の人生としては良かったと思っています。

この間、全く別の仕事を体験したり、名著(海外の古典等)を数多く読んで思索をしたりして、自分の生き方を真剣に考えることができました。

何よりも、小説を書くことをライフワークとして取り入れ、人生に意義を持つことができました。

この考えは、他人に理解されるとは思っていません。

でも自分だけの真実を自分だけが知っている、というのも良いことなんじゃないかな、と思います。

 

学生

うーん、先輩のお話、相変わらず深いですね。

司法試験という一つの試験のための勉強を通して、そこまで人生を深く考えられるならば、ある意味、試験の目的以上のものを得られていると思います。

先輩の話を聞いていて、メーテルリンクの『幸せの青い鳥』を思いだしました。

追い求めていたものが、実はすぐ近くにあったということですよね。

作者のメーテルリンクが法律家であることも、偶然ではない気がします。

 

先輩

 

私が、あなたのような大学生の頃、若くして合格された先輩方に多く出会いました。

まだ右も左も分からない大学生の私は、彼らのことを別世界のスーパースターのような目で見ていました。

しかしながら、実際にお話をしてみると、彼らは全くおごりを感じさせず、気さくに接して下さいました。

むしろ、合格者である彼らの私に向ける眼差しは、『法律家』に対する眼差しのように感じました。敬意を込めて接して下さっているように感じたのです。

当時の私は、その感覚に戸惑ったのですが、今ならよく分かります。

人間が他人にどう接するか、というのは、他人の所属や社会的地位によって決まるというよりも、当人の器量によって決まるものなのだ、ということを悟ったのです。

日々努力して生きている人間は、同様に努力している他者のことも、尊重できる、という事です。

そういう人間になれたなら、試験云々ではなく、一人の人間として素晴らしい人生が歩めるのではないか、と思いました。

 

 

学生

確かに、自分に余裕がある人は、他の人にも感じよく接することが出来ているように思います。そこは想像に難くありません。

私は人には言えない劣等感があり、試験に合格することで、それを乗り越えられるのでは、という期待もあって勉強しているのですが、先輩もそういう思いはありましたか。

勉強それ自体の興味や楽しみよりも、こういう期待をすることについてどう思われますか。

 

先輩

私も、高校三年間は理系クラスにいたので、大学進学において文系になったことについて多少なりともコンプレックスを抱えていました。

高校三年の時に、東京大学理科二類を受けて、落ち、その時のセンター試験の成績で、母校となる私立の法学部に入学しました。

この経験は、後の私の人生を数奇なものにするきっかけとなったものだと感じます。

そして、私の人生にとっては必然的なものであったと思います。

大学時代、自分とは全く異なるバックグラウンドの人達と出会えた事も、貴重な経験となったように感じます。

同様に、東京大学を卒業した友人らのことは、今でも尊敬しています。

また、高三の頃に受験勉強として数三数C(微分積分、行列など)まで勉強していた自分を、今となっては微笑ましく、そして少し誇らしい気持ちで受け止める事ができています。

初対面の大人から、出身大学を聞かれ、答えた際に、相手が微妙な反応をするのを感度も見てきました。

 

 

ーーーーー続きはnoteにて公開

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