予備試験を地方で独学受験やってみた。そして受かった。

予備試験を、東京から遠く離れた地方で、予備校の答練を使用せずしました。

法学部生の対話 社会問題について

ーーーーいじめについて。

後輩

では最後に、いじめについて、先輩はどう思われますか。

私は、昔と異なり、現代ではSNSが発達して、良くも悪くも心の闇が露呈するようになったことが原因ではないか、と私は思います。

スマートフォンは、使い方によっては教育に有用なものとなりますが、自我が芽生え始めた中高生にとって、自分の欲望をコントロールして、教育上の目的に沿った使い方をすることはなかなか難しいのだと思います。

 

先輩

十代の頃、私は自己主張が強い方だったと記憶しています。ただ、私も心当たりはありますが、多くの人(教師を含む)は学校で、自分の独自の考えを押し殺して、何とか無難に学校生活をやり過ごそうとしている、と感じていました。

私が自分の意見を言っても、相手が自身の考えを素直に言ってくれない、と感じた時は、何となく虚しい気持ちになりました。

ただ当時のことを客観的に今振り返ると、そういう人も、学校という閉ざされた場所において、自分の形勢が悪化しないように必死だったんだろうな、と思います。

そして教師も、自己保身のためか、あまり御自身の意見を言いたがらない人も多くいたように思います。

多感な年齢の生徒が、学校がストレスフルな我慢の場になってしまうのは、こういう息苦しい環境にも問題があるのではないか、と思うのです。

同じ学年、同じクラスの生徒は、同質の人間として、概して同じように扱われがちです。でも、人それぞれ、持っている個性も、適性も異なるのだから、それぞれの生徒について、勉強の内容も含めて異なる扱いをするのが、本来的に正しい教育のあり方だと思います。

『異なるものは、異なる扱いをすべきである』というのは、日本国憲法で保障された平等権が相対的平等であると解釈されていることからも明らかです。

ただ、私も高校まで、地方の公立の学校に通っていたので分かりますが、実際には理想とは程遠い教育現場であることも多々あります。

一言で言うと、生徒が自分の意見を言えず抑圧された状況になっている場合が多いと思います。

そういう状況において、皆と同じようにしよう、という心理状態に多くの生徒がなり、そういう『多数派』から外れた人間が、嫌味などを言われ、世で言う『いじめ』の芽が生えるのだと思います。

 

後輩

確かに、多様性が叫ばれている中で、学校教育では、まだまだ旧来型の労働者量産型の教育が行われているように思います。

先輩から見て、何か、打つ手はありますか。

 

先輩

まず、自分の意見を持つこと、そしてそれを相手に誠実な態度で伝えること、が重要だと思います。

教育の目的いうのは、究極的には自立への手助けだと聞いたことがあります。確かに、ゆくゆくは大人になる人間として、自分の個性や適性を見極めて、社会で自分の能力を発揮するために、『自立』というのは大事だな、と思います。

まず、他者とは異なる存在として、自分の意見を持つためには、勉強や習い事等、何か得意なことに一生懸命取り組むことが大切だと思います。そして、自分の意見を伝える際には、相手は自分とは全く異なる存在なのだということを受け入れ、相手の考えも尊重することが肝要です。

 

後輩

なるほど、自分の意見をまず持つこと、そしてその伝え方も大事ということですね。

確かに、仲の良い友人がいた場合、その人と考え方の異なる自分の意見を言ってしまうと、気まずくなってしまうのではないか、と躊躇してしまいます。

 

先輩

まさに、そういう心境が、多くの十代の方に生じていると思います。

ここで重要なのは、自分の考えを持ち批判的な意見を言うことと、感情的に嫌味を言うことは、異なる、ということです。両者の違いを、明確にするために伝え方に気をつけなければなりません。

多くの人は、両者を区別できていないから、人間関係を恐れてなかなか言いたいことが言えず、必要以上にストレスが溜まってしまうのだと思います。それに、友人も、相手が自分の率直な考えを伝えてくれた方が、人間として信頼されていると思えてむしろ嬉しいんじゃないかな、と私は思っています。

人は皆、同じ学校に通っていても、考え方が違うのですから、最低限でも自分の考えを相手に伝えないと、周囲に不本意な形で同化させられることになりかねません。

たまに、中高生と思しき数人の生徒が公共の場で連れ立って騒いでいますが、あぁいうパターンは、周囲に同化して自分を無責任な存在にすると同時に、自分固有の考えを持つことを放棄する姿の典型例だなと思います。

そういう状況において、その数人の一部が、同化できない人間に対していじめてしまったりするのだろうな、と思います。

自分がいじめないためにも、いじめられないためにも、他者と同化せず、自分の頭で考える、ということは大切だなぁと思わされます。

いじめてしまう人間も、自分の真摯な努力ができないために自分の意見に自信が持てず、誰かに同化することしかできないと考え、怯えててしまい、同化できない人間に対して鬱憤をはらしているのだろうな、と私は思います。

やはり、勉強にしろ何にしろ一生懸命に打ち込むことは、大切だと思います。

 

後輩

先輩の言っていること、興味深いです。

確かに、いじめって全く無関係の人間を標的にするというよりも、微妙に仲が良かった人が標的にされる、というイメージがあります。公共の場で騒いでしまう中高生を例に出すというのも、リアリティがありました。

 

先輩

そうなんです。一見して、仲良さげに見える数名の中に、いじめの芽が生える可能性は大いにあります。

むしろ、明らかに疎遠な人間から嫌がらせされたら、遠慮なく無視したり、反論したり、誰か信頼できる大人に相談したりできますから。

私は、十代の頃から、気の合う友人が少なく、特定の友人と比較的静かな会話を楽しみ、長く付き合う方でした。今となっては、自分に合った交友関係を築くことができ、良かったと思っています。

周囲を見渡すと、団子のように複数名でかたまって騒ぐ人達も、一定数いましたが、そういう付き合い方は、危険だなと思っていました。その考えは、今でも変わりません。

今の十代の中高生も、団子のようにかたまって一体化して、公共の場でたむろしたり騒いだりしている人を、時折見かけますが、あぁいう関係は危険だろうな、と思います。