予備試験を地方で独学受験やってみた。そして受かった。

予備試験を、東京から遠く離れた地方で、予備校の答練を使用せずに勉強して受験。勉強を中心に日々、思うことを思うことを綴っていきます。(2017年予備試験 論文は合格まで2点足りず。)

司法試験に落ちたあなたへ(2)

【合格者のマインドについて】

後輩

司法試験合格者のゼミを受講していたり、答案添削をしてもらったりしていると、「受験生の皆が書くことを、当たり前に書く」ということを、よく言われることに気付きました。

他にも、「皆、受かりたいから、択一試験はしっかり勉強するんだよ」とか、「皆、この時期に勉強しているから」といった具合に、『皆だから』という表現を使うことが多いんだな、という印象を受けました。

自分としては、合格者の口からそういう言葉が頻繁に出てくるのは、不思議だな、と思います。

何故なら、弁護士という肩書きを持つことが、私にとっては、『特別なこと』であって、そのための試験に合格するためには何か特別なことをしなければいけないんじゃないか、と考えるのが自然なように私には思えるからです。

また、大学教授として評価が高い先生や、某大手司法試験予備校の大御所と呼ばれる方は、いわゆる『法律家としての心得』を声高にのたまわれています。

そういう発言を聞いていても、何か自分ならではの考え方が、法律家を志す者として重要だと感じました。

そのため、試験勉強をするにあたっては、『自分が』という感覚が、大事だと思っていたのですが、本当は、『皆がやっていることだから』という感覚が、試験においては、大事なのかな、と思い始めました。

 

先輩

なるほど。

私も、その点について、勉強を始めた当初は、疑問に思い、葛藤がありました。

これは、司法試験の問題の傾向及びそれに対応するための受験勉強と、法律家、特に弁護士になってから要される能力との相違に関わるものだと思います。

試験勉強においては、司法試験の傾向を、過去問分析によってしっかりと掴みとり、自分を試験の傾向に適応させることが何より大事です。

この国で最難関といわれる、司法試験といっても、毎年千人以上を合格させなければならない『試験』である以上、『傾向』というものが、必ず存在します。

そして、本番で出された当該問題に適応した程度が高い順に、順位がつけられ、合格させる人数分の順位までの者を、『合格者』とするわけです。

このように、試験の『合格者』が何を意味するか、を考えると、あくまで試験における紙面上の対応であることが分かります。

しかしながら、一度(ひとたび)試験に合格してしまうと、世間の様々な問題に応じた妥当な解決が求められます。

この世の紛争というものの大半が、人と人との間で生じるものであり、その背後には人間の弱さや醜い欲望が存在していることも多々あります。

法律家として、自分の担当する事件に対して適切に対応するためには、真摯に当事者の思いと向き合わなければならない場合が多くあると予想されます。

ただ機械的に試験の傾向に沿った勉強をして、試験に合格するだけでは、法律家として要される能力は、身につかない、と思います。

試験勉強と並行して、時事問題にも関心を持ち、何らかの事件に対して、『本件の場合はどういう解決策が妥当か』を考える習慣をつけることが法律家になろうとする者としては、大切なことだと思います。

こう考えると、試験の『合格者』というのは、あくまで試験に最低限度以上、適応できたことを意味するのであって、生身の人間を相手として事件に取り組む法律家としての適正という点では必ずしも『合格者』とはいえません。

 

志が十分に高くて、勤勉であり、法律家として社会で良い働きができると期待される人が、試験に適応できずに、落ちてしまい、法律家の道を断念する、というケースもあると思います。

他方で、司法試験には合格したけれど、実務においては、順応することができず、心身の不調から、法律家の仕事を辞めてしまう人も相当数いる、というのを聞いたことがあります。また、実際に私も、法律家の仕事を辞めた人のブログを拝見したことがあります。

それは、現行の試験の一つの大きな課題だと思います。

旧司法試験においても、優秀と言われる人間がなかなか試験に合格せずに、働き盛りの若い頃の人生を棒に振ってしまう、というケースが多々あり、社会問題にまでなった、というのを聞いたことがあります。

司法試験を主催する側である司法試験委員会、ひいては国も、そういう社会問題を解消すべく、試験の制度が何年かごとに変わってきました。

同じ成績であれば、二十代の若い人を優先的に合格させる案や、旧司法試験を廃止して法科大学院の進学を要件とすることが、試験制度の大きな変遷の例と言えます。

それでも、この問題は解決していないのが現状だと私は思います。

 

後輩

やはり、試験で、法律家としての素養を測るのは、難しいのですね。

訴訟大国であるアメリカとは、日本は状況が異なりますから、安易に法律家を増やして法律家の仕事の分野を多岐にわたらせる、というのも、現実の社会にそぐわないのだろうな、と思います。

 

 

先輩

そうなんです。

でも、今のあなたのように、この世のあらゆる問題を自分の頭で考えられることは、法律家の素養という点では、良い線をいっている、と私は思います。

私も、学生時代、合格者の先輩方が、何故『皆、こうやってるよね』とか、『自分は、こうだったから』とかを強調して言うのか分かりませんでした。

一つ、印象的なエピソードを出します。

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私が大学生の頃、いわゆる短期合格者の、先輩と試験勉強について質問できる機会がありました。

その時、私は『どの参考書を使用するべきか』『どの時期に、集中して勉強すべきか』等を質問したのですが、相手の反応から、それが的外れであることが分かりました。

相手の方は、『自分は』どのような手段をとったか、ということを強調されていました。

それは、印象的でした。

あくまで私の予想ですが、その方の内面に、多くの受験生の一人であるという意識と、自分ならではの試験戦略のもとで自分が努力をしたという意識があり、葛藤が生じていたのだろう、と思います。

何かの試験に合格したから、絶対的な満足感が保障される、というわけではないのだ、ということは漠然と理解できました。

 

ーーー

 

後輩

まだ私の中で、答えは出ませんが、

試験勉強をしていたら、『皆が書くことを書く』というのが、大事なんだな、というのは何となく分かりました。

 

先輩

はい、そういう感覚は、試験対策上、必須です。

やはり、試験に向けて正しい方向をもって受験勉強をしている人は、試験に受かるのが当然で、落ちるのが特別な事件、といえる、と思います。

 

ーーーーーー法律家を志す旨味について

後輩

先輩の話を聞いていたら、試験の合否や成績以上に、人間としてどうあるべきか、が大事なのだと思わされます。

弁護士、検察官、裁判官、といった法律家になりたい、と言う人を見た時、私は、何となくではありますが、胡散臭いな、と思うことが多々ありました。

法律の勉強が好きで、法律によって人助けしたい、というのならまだ分かるのですが、『弁護士』とか『検察官』といった肩書きを出して、夢を語る時、その職業特有の待遇の良さなどに惹かれて、なりたいと思っているんだろうな、と感じたのです。

実際に、職業に就いている人を見ると、しっかり中身も身についているので、特段、不服ではないのですが、受験生の発言から透けて見える世俗的価値観を考えると、何だかなぁ、と思わされます。

 

先輩

たしかに、二十歳前後若い人が職業を考えるとき、どうしても、その待遇の良さを考えてしまいがちです。

自分の得意分野といえる仕事内容であっても、社会的に地位が低く待遇も悪いとなれば、進路変更をする人が大勢いたとしても、不思議ではありません。

かく言う私も、そうのように、将来なりたい職業を社会的地位や給料の高さなどで判断していました。

ただ、法律を勉強し出して、その考えが若干変わりました。

人間が生活するのに、最低限のお金は必要ですが、大金は必要ありません。日常的に大金を使う人間というのは、どこか生活を改めた方が良いのではないか、と私は思います。

また、法律家という真っ当な仕事をして、それなりの高取得者となると、それに相当する労力も責任も通常は伴いますから、特段、得しているとは思いません。

それに、受験生の頃から、勉強そのものではなく、法律家という肩書きから得られる旨味ばかりを考えていたのでは、試験勉強そのものの成果も十分に出ないことは想像に難くありません。

やはり、誤った考えを持つと良い結果が得られず、良い心がけをすると喜ばしいことが人生で生じるのだと、私は思います。

 

ーーー司法試験のあり方について、

 

後輩「先輩のお話聞いていたからこそ思ったことですが、私の周りでは、法律家として何がしたいか、ではなく、最難関の試験としての司法試験というもののステイタスに惹かれて、受験しようとする人が多いように思います。聞くところによると、弁護士としての適性があっても司法試験に落ちて法律家の仕事を諦める人もいれば、試験のステイタスに惹かれて受験して受かったものの仕事には精力的に打ち込めなかったというケースもあるらしいです。もしそういうことが、多く生じているならば、この試験の意義についても、考えるべきことのように思います。」

 

先輩「たしかに、現状、司法試験は日本でもっとも難しい試験と言われています。そういう社会的評価は、やはり未だ確固たる人生観をもっていない若い人には魅力的です。大学受験で東大を目指すのと同じようなノリで、難しいから目指す、という人が多いのも事実です。大学まで、勉強が得意な人間として、ずっと生きてきた人間にとっては、ある意味で当然の思考方法かもしれません。

しかも、東大受験者のように、記述式試験に慣れている人間の方が、論文式試験心理的抵抗が少なく、結果として合格率が高いというのも事実です。

でも、実際には、勉強ばかりではなく、他のことを熱中してやってきた人の方が、人間としてのバイタリティがあって活躍する、というケースもあると思います。本当にそこは、人それぞれです」

 

ーーーーーー続きはnoteにて公開

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