予備試験を地方で独学受験やってみた。そして受かった。

予備試験を、東京から遠く離れた地方で、予備校の答練を使用せずしました。

司法試験に落ちたあなたへ、エピソード1 抜粋(1)

司法試験に落ちたあなたへ、エピソード1抜粋(1)

【司法試験のコスパについて】

学生

 法科大学院三年間で、生活費や授業料等、全ての支出が一千万円近くかかって、就職したら年収三百万円では、割に合わない。だから、やめる』、という発想から、志望者が減っている、という記事を読みました。先輩は、これについて、どのようにお考えですか。

 

先輩

 確かに、割に合うか、という点から考えると、その記事が語るような側面はあります。

割に合うか合わないかを考えるとにあたって、金銭に換算するのが、一般的にもっとも公平なやり方といえますから。

 

しかし、法律を学習する意義とは、そういうコスパとか、時間の切り売りといったサラリーマン的な考えから離脱したところにあると思うのです。

 

少数派の人権の最後の砦が裁判所ならば、裁判に関わる法律家も、多数派の考えを漫然と受け入れず、自分の頭で考える事を求められている、と思います。

 

勉強に集中する生活を送っていたら、落ちることの不安に押し潰される、ということにはならないのではないか、と思います。そういう心配がある段階では、心の隙があるという点で、まだ精一杯勉強をしていないのでは、との疑問を生じさせます。

 

私は、法科大学院修了後、失権して予備試験を受験した人間ですから、客観的に見て、遠回りした受験生です。しかし、私個人の人生としては、(職がなかった時期の逸失利益を含む)高い授業料を払ってでも、得るべき、貴重なものを得られたと思っています。

それは何か、という事ですが、一言で言うと、「ものの考え方」です。

世間一般で述べられていることが、必ずしも正しいとは限らない、という事に確信をもちました。それ故に、そういう世間一般の考え方に、大きく左右されない人生を歩む礎を築くことができた、と思っています。この点はまだま自己研鑽が必要だと思っていますが。

少なくとも、法科大学院の志望者又は在学生が陥っているであろう、落ちたらどうしよう、などという考えの段階からは脱出できた、と思っています。

勉強時間を確保して、努力をしても、落ちてしまう受験生は、こういう考え方に問題があるのでは、と思わされます。

他者がどういう考え方をしているのか、完全には分かりませんが、いろんな記事から推しはかるに多くの人が抱いているであろう、「落ちたら全てが無駄になる」という考え方では、試験当日に異様な重圧がかかってしまうのではないか、と思うのです。

博打や宝くじと違って、正しい考え方で、日々真摯に勉強に取り組んだ人間にとっては、合格率は限りなく100%に近くなります。

そういう事を分かっているか、分かっていないか、というだけでも日々の勉強に差が出ます。そして、究極的には本試験での出来に差が出ます。

 

予備試験や司法試験の勉強をする意義は、単に資格を得て、俗世間に法律の専門家と認められて、仕事をすることだけに止まりません。確かに、(受験生や合格者の)外から見ると、そう見えるかもしれません。

しかし、当事者となって、初めて気付くこともあります。そして、そういう新たな気づきが俗世間の考えと違うからといって間違っているとはいえません。もう、自分としては、そうとしか考えられない、というレベルまでの確信になっているかもしれません。

 

それに少し気になったのですが、予備試験や司法試験をコスパで考えて受験勉強をするならば、金さえ得られれば後はどうでも良い、という考えのもと、自分で考えたり感じたりする事を放棄する、やさぐれた社会人と同じだと思いませんか。

そういう考えの人間は、そもそも法律家としての前提を欠くのではないか、と思います。

受験勉強しているうちに、そういう世間一般の考えではなくなるところに、試験勉強をする意義があるのではないか、と思います。

法律家の仕事は、本来的には訴訟に関する業務であり、裁判所とは少数派の人権の最後の砦となるところなのですから。つまり、世間の多数派が常に正しいとは限らないことを、その仕事をもって証明していくのが法律家である、とも思うのです。

また、法律の勉強に限らず、自分の考えと、世俗の考えを分離できるところに、勉強する意義がある、と感じます。

もしかしたらこのことは、何も試験勉強に限らず、何かの分野で極める人全般に言えることかもしれません。

 

学生

なるほど。

確かに私も、勉強をしていると世俗の価値観に疑問を感じる時もあります。

また、周囲の人達とも、考え方が違うな、と実感することもあります。

それでも、勉強が楽しいな、と思える瞬間には、そういった世俗で感じる孤独感から解放され、至福のときを過ごせます。

 

先輩

芸能人やスポーツ選手を目指す人など、もっと狭き門になりますよね。それでも一定の人は、目指しています。そういう厳しい世界に覚悟をもって身を投じる人は、成果が出る傾向にありますし、自分で選択してこの道に入ったという意識があるので、どんな困難にも立ち向かっていける傾向にあると思います。

 

ーーー

学生

なるほど、やはりネットの記事は大衆の好奇の的になるようなことを話題にしたがりますよね。

やはり自分の人生は自分で考え切り拓いていかなければならない、と思います。

先輩

そういう記事は、多くの俗世間の人の考えの、氷山の一角であると感じるので、さらに批判させていただきます。

ただ単に、試験に合格して社会的地位を得るためだけに、勉強をしているというのなら、とてつもなく虚しい人生になってしまいませんか。

それに、そういう人に限って、実際、実務についた時に「こんなはずじゃなかった」とか思うのではないか、と私は思います。

近年、若い司法修習生の犯罪行為(酒に酔った際の、社会的逸脱行為)がニュースで取り上げられていますが、そういう事件の背景には、試験さえ受かれば人生それで良い、という世俗にまみれた考えがあるように見えます。

もちろん、試験を受けるまでは、そういう考えから逃れられない側面もありますが、試験を受け終わった瞬間から、当然のようにそういう考えから解放されなければならない、と私は思います。そして、新たに打ち込む対象を見つけて、日常を生きていかなくてはならない、と思います。

そうじゃないと、それこそ世俗にまみれる虚しさから逃れられないのではないか、と思います。

勉強が得意な人間は、経済状況が不安定な自由業よりも、安定した職を好む、と一般に言われます。

しかし、私はむしろ公務員等の、一見経済的社会的地位が保証されている職業こそ、搾取される危険があるのではないか、と思います。社会的経済的地位にしがみつくために、法的に認められた自分の権利主張一切を(自己保身という達成が不確実な目的のために)諦め、しかもいつも自分のアイデンティティの拠り所の無さにさいなまれる、といったようなことが生じやすいのではないか、と私は思います。

上の立場の人に媚びへつらって、自分の職業上の立場をなんとか維持したとしても、他人が自分の人生まで責任を負ってくれるわけではありません。

死ぬ前に、自分の人生は虚しかった、と嘆いても、他人に責任をなすりつけることはできません。

ただ、この点は、人それぞれ考え方が違うところですから、これ以上深掘りしません。大きな組織にぶら下がって自分の独自の感性や考えを主張することを放棄して、一定の経済的社会的地位を保証されている方が楽だ、と考える人もいるかもしれません。広い世の中、そういう人がいても、おかしくないと思います。

官僚の不祥事からも、大きな組織に従属して、その立場を利用して世間を上手く渡っていきたい、出来れば楽して甘い蜜も吸いたい、と考える人の存在が見え隠れします。

ただ、自分の人生を切り開いてきた人間にとって、そういう生き方は耐え難いのでは、というのが私の考えです。

 

批判ばかりして、自説を述べないのはフェアじゃありませんから、私の考えも述べさせていただきます。

私はこうして、司法試験の勉強をする醍醐味とは、「自分の頭で考えられる人生をおくれる」という事にあるのではないか、と思います。

 

私が受験生の時、俗世間の考えと異なる考えをもてたことが大きな発見であって、それだけで意義がある、と思えることに価値を見出せました。それで良いのではないか、と思います。

特に、法律家の多様化が予想される、これからの時代は、これで良いのではないか、と思います。

 

たとえ自分の考えが、世間一般の考えと異なっていても、世間の考えに迎合せずに生きていられる、という、一見誰でも出来そうなことで世の多くの人がなかなか出来ないことが、できる、ということです。こういう生き方、というものは、必ずしも経済的評価に直結しませんが、内心の自由、精神的豊かさ、という点において、それこそプライスレスな価値をもたらす、と私は思います。

仮に、収入が、世間と迎合して虚しさを毎日心に抱き、飲酒や娯楽でごまかしている人間と、同じか少なかったとしても、人生における心の自由、ひいては心の豊かさという点において雲泥の差が出るのではないか、と思います。

これは「何になるか」よりも「どう生きるか」を重視する、という考えからくるものであって、実のところ、こういう考えは私が15歳の頃からもっていました。

改めて、私の10代の頃の考えについて、自分の体験をもって裏書きされたことを実感しています。

 

学生

なんか、そういう域に達するまで、程遠い気がします。

試験が終わったら、しばらくは遊び呆けたいと考えるのが普通ではないか、と思います。これは何も私が特別に怠惰な人間だから、というわけではなく、周りの人間を見ていても、そう感じます。

 

先輩

それが、違うんですよ。当事者になると。正確には、受験勉強に打ち込んでいる当事者になると。

世俗の人が享受している楽しみを諦めて、こんなに苦しい勉強をしているんだから、試験が終わったら、その分取り返してもらって当然じゃないか、と考えるのでしょう。

例えば、お金をたくさん稼いだり、周囲の人間の尊敬を得たり、異性にモテたり、といったところでしょうか。

しかし、私はそうは思いません。確かに、あなたが言うような世間一般の人が考える気持ちになることもありました。

試験前の数ヶ月間、好きな舞台や好きなスポーツの試合を見に行くことはもちろんのこと、テレビや動画で見ることも、控えました。

結構、キツかったです。試験が終わったら、思う存分見たい、とも思いました。

ただ、いざ試験が終わってみると、完全に、「文字の中の住み人」ーーーとなっていました。そのため、映像の中の娯楽に身を投じよう、というモチベーションがなくなっていました。

結局、図書館で借りていた、岩波文庫の古典小説(トルストイカミュの本等)を何冊か読んで、気分転換をはかりました。

試験に向けてだけではなく、人生全般において意欲的になれ、結構良い気分転換になりました。

 

試験が終わったから、勉強する目的をなくし、娯楽に身を投じる、という考えによる人生は、虚しいのではないか、と思います。

 

そういう考えは極論すると、勉強している自分は犠牲者と考えていることになってしまうのではないか、と思います。

それに、試験に受かっても、経済的社会的地位が保証されておらず、確実に異性にモテるわけでもありません。むしろ、そういう不確実な人生を生きている、と自覚できることが大切ではないか、と思います。そういう立場が保証されてしまっていたら、あとは自己保身にはしるだけの人生になってしまいかねません。

それに、真摯に勉強をしていたら、「試験に受かったから勉強は終わり、あとは金だ、娯楽だ」という考えにはなりません。

そうならないように勉強をすることが求められているのではないか、と思います。

 

 

学生

そうですか、相変わらず、勉強になります。

また、実際に試験を経て実務につかれた人で、試験以外にも自分の適性のあるものはあった、と半ば、法律家になった事を後悔しているような発言をしている人もいました。

現状の生活に、決して不満足というわけではないどご本人もおっしゃっていますが、話の随所に、平凡な日常に対するやりきれない気持ちが感じ取れました。

 

これは、自分の意見ではないのですが、言われてみればごもっともだと思ってしまう考えで、それを聞くと勉強する意欲が萎えてしまうので、先輩の考えをお聞きしたいです。

 

先輩

その人の考えは、世のサラリーマンと似て非なる側面があるように感じます。

仕事もあって、妻子もいて、社会的にみて一定の恵まれた生活をしているけれど、時折、なんとなく虚しくなる、ということだと思います。

そういう人は、どの職業でも、一定程度いるのではないか、と思います。

法律家よりも、もっと適した職があったかもしれない、と考えてしまうのは、自分が日頃の生活を楽しめない事を法律家という地位のせいにしているからだと思います。

士業は、本来的に自由業なのですから、法や弁護士職務基本規定に反しない限り、 基本的に何でもやって良いのです。

 

弁護士職務基本規定に、品位保持義務という、やや抽象的な義務がありますが、それも過去の懲戒事例を見ていると、憲法の人権侵害等、よっぽどのことがない限り、義務違反とされないと思えます。

世俗的な遊び、例えば、中年の男性が若いアイドル歌手に貢ぐ程度では、品位保持義務違反にならないと思います。

ちなみに、この例は、(要件事実の本として受験生がよく利用している)大島先生の本から想像することです。

その本の中で、仮の事例をあげる際、(総選挙を実施している)某アイドルグループの名字や名前が(姓と名をバラバラに組み合わせて)使用されていました。意図的に、としか思えないもので、最初読んだ時には驚きました。

しかし現状の私は、法律家とは高潔で世俗的な娯楽に一切関わってはならない、というステレオタイプの考えを打ち砕く意図が、あったのではないか、と考えています。

その本の事例は、このくらいだったら良い、と受験生や法律家に思わせてもらえる、という点で意義があったのではないか、と思います。

 

弁護士の広告も解禁されましたし、訴訟活動以外に、社会に貢献できる活動として、アイドル歌手の活動に準じる程度のことはしても構わない、と提示されているような気すらしました。

 

そもそも、法科大学院制度をつくって、法曹人口を増やそうとしたのも、訴訟行為以外に、法律家の仕事を拡大させ、日本経済の発展を図る、という目論見があったのではないか、と思います。

ただ意外と、皆、最高裁判例の先例拘束力の意識のもとで勉強をしてきたせいか、試験が終わって実務についた後も、従来の法律家の活動(訴訟活動、国選弁護、予備校講師)以外のものに手を出す人が少ないように思います。

 

法律家の仕事として 、そういった従来の法律家の活動が限られており、法律家の人口が増えるのであれば、法律家の市場に参入する当事者の自分としては、自分なりの仕事を考えておかなければならない、と思います。

 

 

学生

そこまでくると、なんだか、今までの法律家のイメージが全て覆りそうです。

 

先輩

全ては、考え方にあります。

『引きこもり』と一口に言っても、全ての人がうつ病患者又は、社会の膿とは限りません。

 

FXや株などで、億単位で稼いでいる人も、客観的には引きこもりですし、難関の国家試験の勉強に打ち込んでいる人も、客観的には引きこもりです。

そういう人も、他の引きこもりの人と同様に、時にストレスを抱え、うつ病予備軍になっている場合もあるかもしれません。ーー

また、芸能人やプロスポーツ選手も、脚光を浴びている時以外は、自宅等どこかに引きこもって、孤独感をもちつつ自己研鑽に励んでいるのではないか、と思います。

 

客観的に見て、高級取りで順風満杯な人生を送っているように見える人でも、時に引きこもって、人には言えない悩みに苛まれていることもあると思います。

人間ですから、それも特段、不自然ではありません。

それでも、何とか真摯に生きています。

こう考えると、『引きこもり』というのも、定義があやふやな感は否めないと思います。

働き方の多様性が何かと話題になる世の中、それで良いのではないか、と私は思います。

 

ただ、声を大にして言いたいのは、たとえ友人や家族がいたとしても、一個人の人間としては皆、孤独なのだ、という事です。

この事実を胸に、人生を生きると、他者への理解や、慈しみにつながるのではないか、と思います。

その孤独感を、世俗的なもので、ごまかして生きてしまうと人生の醍醐味が半分以上、失われてしまう、と私は感じます。

 

あなたのような若い人にとっては、耳が痛い話かもしれませんが、私の考えを実感する日が来ることを願っています。

 

 

学生

なるほど、全ては考え方って事ですね。ここまできて、試験に受かるか落ちるか、ということを考えている自分がいることに気づいてしまうのが嫌です。

 

先輩

はい、そうですか。正直ですね。自分の内面に向き合うのも大切です。

 

トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、『幸福な家庭はすべて互いに似通っているが、不幸な家庭はどこもその趣が異なっている』と述べられています。

言い得て妙だと思います。

私も、試験勉強をしていて、試験についてこれと似たようなことを思っていました。

それは、『本試験の答案において、優秀な成績を取る人のものは全て似通っているが、不良であるものは、どれも間違い方が異なっている』ということです。

さらに、それに加えて答案を作成する人間についても、思うところがあります。

 ーー

 トルストイのアンナカレーニナの出だしで、そういう文章がありますが、法律の論文式試験の解答でも、同じようなことが言える、とは、かねてより思いました。

より小説に近づけて言うと、「優秀な答案というのはどれも互いに似かよっているが、不良の答案というのは、どれもその趣が異なっている」と。

しかも、優秀な答案を書く人々は、一個人として見たときには、似ているどころか、その思想、価値観に、俗物とは隔離したオリジナリティを各々が持っている。それぞれに、人間としての、何らかの魅力がある。

他方で不良の答案を書く人々は、答案を離れて、人間として見たときに、孤独を受け入れ得られず、世俗にまみれて生きている、という点において、互いに似かよっている、と思った。

 

つまり、世俗にまみれて生きている、自分の頭で考えず世俗の価値観に身を委ねて生きている、という点で、しっかりした個性を持たない人間という意味において同じだ、と感じるのだ。

 

 

あの人には、彼女がいて、とか家庭があって、と言う人がいるかもしれない。

しかし、たとえ、彼女、家族、という存在がいたとしても、それらに人達は究極的には、自分とは別の頭と心を持った人だから、孤独を紛らわせることはできても、完全に分かり合えることはない、と思います。

そして、勉強や仕事に打ち込んでいる人ほど、そうなのではないか、と思います。俗世間にまみれて、なあなあで生きている人達は、彼女とか家族とかがいることで、体面を保てたことに満足し、孤独を受け入れる努力を怠ってしまう傾向にあると感じます。

 

―――

それは、『良い成績を取る人というのは、それぞれに考え方が異なっているが、不良の成績を取る人というのは、試験において俗物的考え方をしているという点において似たような考えをしている』、ということです。

上位の成績の人達が、答案においては同じような答えを提示しているのに、生き方や考え方、価値観になると、それぞれ別個独立の考えをしているのは、それぞれが個人で勉強に打ち込んできたためオリジナルの考えが出来上がっているからだと思います。

他方で、不良の成績を取る大半の人は、試験対策としての勉強に十分打ち込まずに、それでもまぐれ合格を狙って試験を受けているわけですから、俗物に迎合した世俗的な考えをもって生きているために、考えが似通ってくるのだと思います。

これも、あなたが勉強が進んでくると、言い得て妙だ、と思うかもしれません。

考え方の違う人で、かつ、勉強に打ち込んできた人と関わり合えるなんて、考えただけで私はワクワクします。

 

試験勉強をしていない人が、俗物、というわけではなく、試験勉強に打ち込める環境にあるのに打ち込まずに試験を受ける人というのは、世俗的な遊びで気を紛らわせている姿が容易に想像出きますので、どこかで世間に迎合している、と私は言いたいのです。

試験勉強以外の、何らかの自分の専門分野において打ち込んでいる人は、試験で上位合格する人と同じかそれ以上に、自分なりの確固たる考えを持って生きている、と私は思います。

これは、何も勉強の分野に限らないと思っています。そういうワクワクする人生を送るためにも、自分自身が精一杯、目の前のやるべき事に打ち込むことが大切だと思います。

 

先輩

 

こう考えてみると、自分が若い(主に大学生の)頃、勉強をそれなりに頑張っていたにもかかわらず結果が出なかった理由が分かるような気がします。

『上位合格者の勉強方法』という司法研修所が出している本で、一位の合格者は予備校を一切使っていませんでした。そして、勉強方法が、王道中の王道でした。

さらに、その誠実で努力家な人間性まで透けて見えそうな気がして、凄みを感じさせました。

『超上位合格者って、やはりこういう(王道を行く)人なんだな』と感嘆しました。

 

私が、大学生の頃に出会った合格者も、もちろん優秀で努力家な方々が多かったのですが、皆が皆人間ができていて、模範的な受験指導が出来る、というわけではありませんでした。

考えてみれば、この世の合格者には、超上位合格者の方が圧倒的に少数派なので、そういう人の受験指導を受ける機会に巡り合う事の方が難しいといえます。

ただ、現代のネット社会においては、上位合格者の声を探し見つけることもできます。また、そういう書籍も、探し、見つけることができます。

このような現状に鑑みると、模範的な受験指導を受けられなかったことについて、一概に、自分が実際に出会った合格者のせいには出来ないと思います。

そういう、受験指導をどう捉えて、どのように自分の勉強に役立てていくか、考えて試行錯誤する事も実力のうちだと、今では思っています。

 

それに、何が『正しい受験勉強の方法か』という点についても、人によって異なると思います。

まとめノートを作るのが良い、という人もいれば、そういったものは作らずひたすら過去問を何度も解きまくるのが良い、という人もいます。最終的に、試験で求められる実力が身につけば良いわけですから、そこに至る方法は、十人十色といえると思います。

 

また、「オレは、もう受かっちゃったからぁ~」と、自慢したり、カッコつけたりする人は、まず最初に適切な指導者から除外して良いでしょう。

さらに、まだ受験生の点で、「オレは弁護士になってやるんだ」と言っている人も、大した事ないと思います。

実際、私の学生の頃を振り返っても、そう言っている人が合格した試しがほとんどありません。本当に試験に通る人は、どう勉強すれば落ちないかを考えながら、勉強に打ち込みます。

もちろん、心の中では、そのように(『弁護士になってやるんだ』と)思っていても一向に構いません。

ただ、思いが強いからこそ、あまり言わない、声高にのたまわない、というのはどの分野でもいえることではないでしょうか。

 

極論すれば、『落ちる人ほど受かることを考えていて、受かる人ほど落ちることを考えている』ともいえます。

 

また、『予備校が害悪だ』という見解の根拠として、答案練習会の問題の質が過去問と雲泥の差がある、ということに加えて、『合格すれば終わり(目的達成)だ』という誤った考えを植えつけられる危険性がある、ということが私からは考えられます。

前者の根拠は巷でよく知られていることですが、後者については、どちらかと言うと私が個人的に強く思うことです。

試験の合格というものは一定の水準に達した成績をとった人間に認められるものであって、実態はかなりのグラデーションで、合否の境目付近の実力はかなり拮抗しています。ーーー

 

司法試験合格率の高い予備試験でも、1番から450番位まで順位がつきます。仮に定員が450人だったとした場合、450番と451番の人は実力としてほぼ同じと言えます。科目によっては後者の人の答案の方が良いものもあるはずです。

それを落ちたか受かっただけで、天と地の差ほどあるように俗世間において扱うのは、如何なものか、と思います。たとえ、受かったとしても400番付近であれば、予備試験レベルでもまだまだ理解不足の点はあるはずです。逆に合格ラインに2点ほど足りなくて落ちたとしても、試験日まで勉強を頑張って身につけたものは、誰にも奪われるものではありません。試験に向けて本当に適切な努力したならば、誇りをもって良いと思います。できなかった箇所をしっかり復習すれば、間違いなく次の年には良い結果が得られます。

そのような実態を軽視させるかのような表現が予備校ではなされています。さも、合格者が凄いように取り上げたり、(まぐれ合格かもわからない)合格者の人数を誇示したり、といった表現が宣伝でなされたりします。予備校も、営利を目的として業を行う組織である以上、致し方ない側面はあるのは分かっています。ただ、一受験生としては、気をつけておかなくてはいけないなぁ、と思います。

予備校のパンフレットや宣伝を真に受けて、無批判に利用していると、試験合格というものにあたかも色や形があるかのように見え、勉強に打ち込むにしたがって、そういった考えが誤りであることに戸惑い自分で導き出した正しい考えに従えず、伸びる成績も伸びなくなってしまいかねません。

試験勉強とは、試験を通過点として、自分の実力を最大限伸ばす過程であって、試験の結果自体に色や形があるわけではありません。

そこには『考え方』があるだけです。

シェイクスピア的にいうと、『試験に、人間としての合格も不合格もない、ただ考え方があるだけだ』(原文『人生に、幸福も不幸もない。ただ、考え方があるだけだ』)

 

 

学生

深いですね。ーーーーーーー完成版はnoteにて公開

 

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