予備試験を地方で独学受験やってみた。そして受かった。

予備試験を、東京から遠く離れた地方で、予備校の答練を使用せずしました。

司法試験に落ちたあなたへ(3)

司法試験に落ちたあなたへ(3)

【合否の精神的区別について】

 

学生

先輩のお話から、受験生という身分と、合格者という身分で、世間的には扱いに差異があるけれど、当事者の内心としては、かなり類似しているということが分かりました。

私はまだ、その違いがよく分かりません。

というより、それを類似のものとして扱う勇気がまだありません。

そういう考え方をするということは、取りも直さず、思考の面で、世間から隔離されるということにつながるような気がしてならないのです。

その考え方に対する、対処と言いますか、落としどころのようなものがありましたら伺いたいです。

 

先輩

はい。

私も、あなたのように若い受験生であった頃は、合格、というのは世間的な評価を得ることであって、全く別の人間になることだ、と思っていました。そして何か色や形がある、物理的なものをつかみ取ることだと思っていました。

それは半分正しくて、半分間違っていました。

合格というのは、確かに世間の評価を得ることなのですが、それを自分が実感することはあまりありません。他人の評価というものすらも、他人のものなのだ、と気がつきました。

また、合格して受験勉強が終わったからといって、物理的に同じ人間である以上、社会的に別の人間として扱われることはありません。別の人間になる、というのはあくまで自分自身の感覚的なものです。それも、合格したから、というよりは勉強したから、だと思います。

人間は新しい事を学ぶたびに新しく作り変えられているように感じるものです。

ただ、語弊を恐れずに、ここで私が強調したいのは、物理的な現実よりも自分の感覚的なものの方が、自分にとっては正解だと言える、という事です。

私の感覚としては、合格によって色や形のあるものを掴みとったという意識はなく、自分の想像していた物理的なものに関して、虚無感を覚えました。

ただ、勉強を継続していく中で、自分の意識がハッキリとしてくるのが分かりました。特に問題を解いていて、論文の書き方が分かった時などに実感しました。

そこには、ただ自分との対話があるだけでした。

 

以前にも言ったかもしれませんが、まだ二十歳前後の受験生だった頃、私は、合格というものを得るためには他の受験生を敵視して押しのけて自分がのし上がらなければならないと思いこんでしまった面がありました。この思い込みは、周囲の大人の影響が大きいと思います。実際に、『(司法試験)受験は競争だから』という旨の発言をする大学教授もいました。

しかし、実際に合格してみて、そんな心境で勉強していたら受かるものも受からない、という事が分かりました。なぜなら、そういう心境では、目の前の問題を解く、という事に集中出来ないからです。

試験に合格する、ということは目の前の試験問題が一定程度解ける、ということに他ならないのです。

そうであるならば、世間的な評価を気にすることは試験において本来不要なはずです。

にもかかわらず、試験の合否において世間的な評価がつきまとうのは、ご存知の通りです。

当事者としては、こんなにも違和感を覚えているのに、です。

とすれば、世間的な評価、というものは試験に合格した自分のものではなく、むしろ世間のもの、と考えられませんか。

少なくとも、私は、そう思うようにしています。

世間の評価を得ることを諦めて、自分のやりたいことに打ち込むという事を大切にして勉強していれば、自ずと成績も上がり、本試験での結果もついてくるのです。

そして、本試験の日が終わっても、日々、学ぶこと、そして世間と安易に迎合しないこと、は続くのです。

そう考えると、試験勉強というものは、もはや合格云々ではなく、人間としての生き方そのもの、と言えると私は思います。

 

こういう試験合格に対するイメージを早い段階で持つことができ、勉強を継続できた人は、早く受かるでしょうし、誤った認識をもったまま闇雲に答練を受けたり参考書を読んだりした人は、合格まで長い年月がかかるだろうなと思います。

ちなみにですが、二十二歳で合格した人が楽をしていて、三十五歳で合格した人が苦労している、とは一概には言えない、ということを私は知っています。

 

余談ですが、私自身は、二十代半ばまでに受からなくて、自分の人生としては良かったと思っています。

この間、全く別の仕事を体験したり、名著(海外の古典等)を数多く読んで思索をしたりして、自分の生き方を真剣に考えることができました。

何よりも、小説を書くことをライフワークとして取り入れ、人生に意義を持つことができました。

この考えは、他人に理解されるとは思っていません。

でも自分だけの真実を自分だけが知っている、というのも良いことなんじゃないかな、と思います。

 

学生

うーん、先輩のお話、相変わらず深いですね。

司法試験という一つの試験のための勉強を通して、そこまで人生を深く考えられるならば、ある意味、試験の目的以上のものを得られていると思います。

先輩の話を聞いていて、メーテルリンクの『幸せの青い鳥』を思いだしました。

追い求めていたものが、実はすぐ近くにあったということですよね。

作者のメーテルリンクが法律家であることも、偶然ではない気がします。

 

先輩

 

私が、あなたのような大学生の頃、若くして合格された先輩方に多く出会いました。

まだ右も左も分からない大学生の私は、彼らのことを別世界のスーパースターのような目で見ていました。

しかしながら、実際にお話をしてみると、彼らは全くおごりを感じさせず、気さくに接して下さいました。

むしろ、合格者である彼らの私に向ける眼差しは、『法律家』に対する眼差しのように感じました。敬意を込めて接して下さっているように感じたのです。

当時の私は、その感覚に戸惑ったのですが、今ならよく分かります。

人間が他人にどう接するか、というのは、他人の所属や社会的地位によって決まるというよりも、当人の器量によって決まるものなのだ、ということを悟ったのです。

日々努力して生きている人間は、同様に努力している他者のことも、尊重できる、という事です。

そういう人間になれたなら、試験云々ではなく、一人の人間として素晴らしい人生が歩めるのではないか、と思いました。

 

 

学生

確かに、自分に余裕がある人は、他の人にも感じよく接することが出来ているように思います。そこは想像に難くありません。

私は人には言えない劣等感があり、試験に合格することで、それを乗り越えられるのでは、という期待もあって勉強しているのですが、先輩もそういう思いはありましたか。

勉強それ自体の興味や楽しみよりも、こういう期待をすることについてどう思われますか。

 

先輩

私も、高校三年間は理系クラスにいたので、大学進学において文系になったことについて多少なりともコンプレックスを抱えていました。

高校三年の時に、東京大学理科二類を受けて、落ち、その時のセンター試験の成績で、母校となる私立の法学部に入学しました。

この経験は、後の私の人生を数奇なものにするきっかけとなったものだと感じます。

そして、私の人生にとっては必然的なものであったと思います。

大学時代、自分とは全く異なるバックグラウンドの人達と出会えた事も、貴重な経験となったように感じます。

同様に、東京大学を卒業した友人らのことは、今でも尊敬しています。

また、高三の頃に受験勉強として数三数C(微分積分、行列など)まで勉強していた自分を、今となっては微笑ましく、そして少し誇らしい気持ちで受け止める事ができています。

初対面の大人から、出身大学を聞かれ、答えた際に、相手が微妙な反応をするのを感度も見てきました。

 

 

ーーーーー続きはnoteにて公開

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