司法試験に落ちたあなたへ(4)
司法試験に落ちたあなたへ(4)
後輩
先輩はセンター試験利用方式で、大学に入学したという事ですが、周囲とのギャップがかなりあった事は、容易に想像がつきます。
巷で批判される、指定校推薦で入っている人も多い私立大学(文系)において、推薦組と御自身が同じ学歴に扱われることについて、抵抗はありませんでしたか。
私は、他大学の一般入試を受けて、滑り止めとしてセンター試験利用方式で今通っている大学に願書を提出して、結局今の大学に入学することになりました。
指定校推薦で入学した人を見ると、自分の努力で入ったわけでもないのに、のうのうと生きていて、少しムカッとする事もあります。
先輩
私も、あなたが言うように、大学生時代、指定校推薦の子と同じ学歴になるのはちょっとなぁ、と思っていました。
でも、今では不思議と、その現実を受け入れられるようになっています。
同じ大学に入学しても横一例じゃないんだ、という事については、案外知っている人は知っています。もしかしたら、多くの人がいずれかの立場で身をもって感じた事かもしれません。
そして、私立大学も経営上一定数の学生を確保するため、指定校推薦を利用せざるを得ないという事実にも、この世の中を生きる大人として納得しています。
そして何より、勉強に打ち込んだことの成果は、本人の内面にしっかりと備わっている、というのも事実です。
さらに、実際に指定校推薦で入学した人達が、勉強もせずにのうのうと生きてきたなら、そういう人は大学に入学した後も、虚しい気持ちになって自分自身の事について悩んでしまうんじゃないかな、と思います。
もちろん、指定校推薦で入学した人でも、そうではない人もいるとは思います。
御本人に聞いてみないと分かりませんが、人間の内面というものは、その言動の節々に表れるのだ、という事も紛れもない事実です。
実際に大学時代、人(私)に対して、公然と悪口を言っている人がいました。私は、あまりの幼稚さに呆気に取られ、何も言い返さなかったので、その場での醜い争いは避けられましたが、その時の事は今でも鮮明に覚えています。高校時代に同じクラスだった人や同じ塾のクラスだった人等の、私の周りにはいなかった部類の人です。
そして、そういう発言をした人が、指定校推薦で入学した人間であった事は、偶然ではない気がするのです。
それについて、当時は腹立たしいことだと思いましたが、社会の縮図を見たような気がして、今となっては良い社会勉強となった、と思っています。
後輩
なるほど。楽して生きているように見える人は、それなりの報いを受けている、ということですね。
先輩
はい、そうです。
それに、あなたの言う『楽して指定校推薦で入学した人』も、のうのうと生きているように見えるだけで、内面では、どんな悩みを抱えているか分かりませんよ。
勉強を一生懸命した人間が、自分を誇らしく思えたり、自分に自信をもてたりすることを考えると、楽して外形上の肩書というものが得られたとしても、それほど満足感は得られないのではないかな、と思うんです。
あなたが、大学受験まで、一生懸命勉強して得られた内面の成長というものは誰にも奪われるものではありません。
後輩
私は高校時代、理系クラスにいました。
法律も論理的と言われる学問ですから、理系から法学部に来た人の方が、有利である、というのを聞いたことがあります。
先輩は、どう思われますか。
先輩
私も高校時代理系クラスにいて、大学も理系の大学を受験したので、他の法学部生よりも数学や物理を勉強した時間は長いと思います。個別の知識についてはもう忘れてしまいましたが、論理的思考が必要と言われる科目について勉強していたため、論理的思考能力が、養われている、とも言えます。
しかし、私の感覚としては、法律の論文試験で求められている論理的思考と、数学的な論理的思考って、少し違うな、と感じていました。
若干、法律の論文式試験の内容にまで踏み込むことになりますが、私が実際に感じたことで重要だと思うことなので、聞いて下さい。
私は、法律の科目の中でも、論理的と言われる、刑法が体感としては得意と感じていたのですが、毎回のように良い成績取れるとは限りませんでした。
この原因を分析したところ、たとえ論理的と言われる刑法であっても、最低限度の判例、学説の知識は必要であった、ということだと思います。
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試験に受かる人は特別の人か。
後輩
試験に落ちて思ったのですが、試験に受かる人というのは、やはりとても頭の良い人なのではないか、と思うのです。
先輩
結論的に言うと、試験に受かったからといって特別頭が良い人である、というわけではない、と思います。
ただ、一度試験に合格してしまえば、世間では少数派の既得権者となるわけですから、自分が特別頭が良いと評価されて、それを否定したがらない人が一定数いるのも頷けます。
そこには、『モテたい』『相手より優位に立ちたい』などの、世俗的な人間としての思惑があるのでは、と疑わずにはいられません。
他方、私個人の意見としては、難関試験に合格したという事実は、ある意味、『普通の人間であること』の証明なのではないか、と思うのです。
考えてもみて下さい。最難関と言われる予備試験ですら、自分の他に同期の合格者(平成三十年の合格者参照)が四百人以上いるんですよ。
それって、自分と同じ又はそれ以上の合格答案を書けた人が少なくとも数百人いる、という事実を表していますよね。
しかも、そういう合格者が毎年何百人か輩出されているのです。
そういう、一定の集団の中の一人に過ぎない、と考えると、少なくとも当該試験においては『唯一無二の天才』ではない、と言えます。
ただ、当事者として受験している時点においては、自分の勉強に精一杯で、こんなことを考える余裕はないと思いますし、実際もそうでした。
自分の勉強が上手くいかないと、『自分も天才だったらなぁ』と考えてしまい、意気消沈することも多々ありました。
試験に合格した後は、皆、試験日まで努力できた、という自分の体験に自信をもてるようになるので、傍から見ると天才であるように見えるのかもしれません。
でも、実際には、どの合格者も、程度の差こそあれ、勉強中心の生活であったと思います。
それに、もし自分が、アインシュタインやエジソンのような『天才』と呼ばれるような人なのであれば、他の人が思いつかないような特別な発想をしてしまって、(予備試験なら)合格者四百人余りが書くような答案を書けないんじゃないかな、と思うのです。
後輩
『合格者こそ、普通の人間』という発想、なかなか新しいと思います。
ただ、それが本当ならば、試験に合格した人は、非凡とか天才である、という巷の意見は、事実とは真逆のことを言っている、ということになりますよね。
なぜ、そんな現象が生じているのでしょうか。
先輩
人間、希少価値が高いものについては、その仕事を困難なものとみなす傾向にあると思います。
そして、予備試験、司法試験も、(特に予備試験は)合格率が低いですから、一般に難関試験と言われています。
すると、巷の意見としては、合格する人、特に短期合格する人は頭が良いのだ、ということになるのだと思います。
ただ、それは、自分と自分の周りの人間の考えから結論づけられた、主観的評価に過ぎないと思います。
たとえば、名門の進学校に通う高校生Aの心境と、地方の公立高校に通う高校生Bの心境の違いを考えてみましょう。
高三の夏の段階で成績が同じくらい、例えば東大模試D判定でも、Aさんは勉強したら東大に行けるという意識をもつことができて、Bさんは志望校を変更しようか、と考える傾向にあると思います。
これは、周囲の環境から受ける心理的障壁である、と思います。
周りが皆、東大や国公立の医学部を受験するという環境にいると、自分も受験して当たり前、そして勉強したら成績が上がって合格ラインに達して当たり前という感覚になるのだと思います。
そして、そういう前向きな心境でいると、当然のように勉強が捗りますから、成績も伸びて合格しやすくなるのだと思います。
そう考えると、難関試験を受験するときには、巷の意見を間に受けてはいけない、という結論に達すると思います。
巷で言われる試験の難易度を気にしてしまうと、やはり心理的ハードルが生じてしまうからです。
巷の人間というのは、皆が皆、試験問題はもちろん受験界に精通しているわけではありません。
巷の噂というのは、いわば実体の無いバブルのようなものです。
そういう、虚偽の事実に、いかに惑わされないか、ということも、精神状態が試験勉強に影響することを考えると、実力のうちだと私は思います。
難関試験の受験勉強をする際には、周囲の親しい友人も同じ試験を受験する状況である、というのが理想だと思います。
そして、そういう難関試験に短期合格する人というのは、皆驚くほど、『普通の人』だと思うのです。こういう、『合格者は普通の人』という事は、合格者本人のインタビューなどでも、よく言われていることです。
後輩
なるほど、そう言われてみればそうかもしれません。
でも、実際、試験に受かっている人って、美男美女が多いですよね。
先輩
それは、私も周囲を見ていて感じます。
ただ誤解を恐れずに言えば、そういうことすらも、合理的だ、と感じるのです。
ーーーーー続きはnoteにて公開