予備試験を地方で独学受験やってみた。そして受かった。

予備試験を、東京から遠く離れた地方で、予備校の答練を使用せずしました。

司法試験に落ちたあなたへ(4)続きパート1

司法試験に落ちたあなたへ(4)続きパート1

 

後輩

でも、何らかの意味で『立派な人』になろうとして、猛勉強するわけですから、その試験に合格した人が、あまりに『普通の人』だと、なんだか夢がないように感じるんですよね。

 

先輩

あなたのおっしゃること、分からないでもありません。

日本では、制度上、難関試験は誰でも受けられるようになっています。

そして合格すれば、その後の人生が開かれるということになっています。

でも、世間的に、『合格者』となった人間は気づくのです。自分が、いわゆる偉い人になったわけではない、と。

『合格者』という立場を得て、振舞いが変わる人もいますが、多くの人の内面はすぐには変わらないと思います。

ところで、日本は、形式上、身分制度がありません。

でも、実質的には、経済、教育、生まれ、の点において、明らかな格差がある。

それを受け入れた方が、双方ともに幸せになるんじゃないかな、と思います。

受け入れないと、上の方の人間は、下の方の人間に対して、何でこんなことも分からないんだ、同じ人間なら分かるはずだろ、と苛立ちを隠せないと思います。そして、下の方の人間も、上の方の人間は偉そうだ、同じ人間なのに、ということになります。

これが、明確に、階級制度というものがあると、上の方と下の方は、行き方考え方が違うのだから、という考えになり、互いの利点と欠点を認め合えるのではないか、と思うのです。そして、上の方は、高い地位が保障される代わりに、社会的義務を負い、弱い者いじめはご法度なのだから、と思うのです。

念のため言っておきますが、ここでの、『上』とか『下』とかいうものは、あくまで数値上のものであって、人格的な素晴らしさをいうものではありません。

学校の成績が悪くても、経済的に恵まれなくても、素晴らしい人間は大勢いると思います。

そして、『司法試験合格者』という立場になった時、その過程で、おそらく貴重な学びを得ているでしょうから、それを何らかの形で社会に還元しなければいけない、と思うのです。

これは、社会的地位が高い者が負う、道徳的責任(欧米では、noblesse oblige)といえると思います。

そういう立場を得たら、あまり卑下し過ぎず、毅然とした態度で自分の価値を社会に提供するのが、理想だと思います。

ただ、なかなかそのような理想通りになっていないのが現状と言えそうです。

この話は、あなたの言う、合格者が『立派な人』として振る舞って欲しい、という希望と関連すると思います。

 

後輩

先輩のお話、試験勉強を超えているようでいて、試験勉強と密接に関連するように感じて、興味深いです。

受験勉強をしていると、この世の中の価値観と、自分の価値観が異なっているのを感じずにはいられなくなりました。

 

先輩

ある特定の試験勉強に打ち込む受験生とはいえ、この世の中を生きる一人の人間として、世間という存在から、逃れることはできるません。

受験生、そしてゆくゆくは合格者になる人間として、どういう生き方を心がけるべきか、について私は思うところがあります。

結論的にいうと、自分の身につけた能力を社会に還元する事を念頭においておかなければならない、ということです。

このことは、何も司法試験だけに限らず、難関試験に受験し合格する者について言えることだと思います。

高校の頃のエピソードに遡ります。

高校生の頃、私は、まずまず勉強が出来る子だったのですが、同じクラスの同級生に、「頭良いね、ずるい」というような事を言われました。

確かに私は、中学生の頃体育が4以外は5の成績(オール51足りない成績)を取って、学区外の県立の自称進学校に通っていました。地元の県立高校には、学区制というものがあって、学区外から受験する人間が(成績順で少数に)制限される、という状況でした。

私は、自分を含め、人間が勉強が出来るようになるのは、ひとえに本人の努力によるものだと思っていたので、『ずるい』という表現は的外れではないか、と思い驚きました。

 

むしろ、勉強せずにのうのうと生きている人間がズルい、と思っていた私にとっては、寝耳に水でした。

そもそも、学区外という枠で高校受験をした私にとっては、中学時代にオール5位を取らないと進学校に受験できないと思って勉強していたのに、高校に入学すると、そこまで勉強熱心な人間の方が少数派でした。

そういう少数派の呪縛から逃れたたくて、今どきの娯楽に関心をもったりしていたのに、周りから見れば、それが『ズルい』の一言で表されるものだったのです。

今でも、あの時のことは、とても印象に残っています。

ただ、今ならはっきりと思います。『じゃあそう言う貴方はズルくないのか』と。

勉強に打ち込むでもなく、部活に打ち込むでもなく、(おそらく何か悩みはあるのであろうが)少なくとも何ら打ち込む対象をもたずにのうのうと生きているではないか。さらに、そうやって勉強している人間の足を引っ張ろうとするのは、果たして『ズルくない」人間であろうか。

そう思った後に、ふっと、そんなこと当たり前だよな、と思うのです。

今だから分かることですが、この世の中というのは、大衆によって構成されていて、自らの意思決定によって生きようとする人間は、常に何らかの迫害に遭う、という構造になっていると思います。

 

大人になって振り返った時、妙にその『ズルい』という発言に納得しています。

それは私が受験生の時、司法試験合格者が、威張り散らしているように見えた時、『感じ悪い』と思うことがあったからだと思います。

そして、その感情が湧いたのは、能力を身につけた人間が、その能力を社会に還元せずに、世俗的な娯楽に身を投じようとする姿勢が垣間見えたから、だと思います。

合格者が、熱心に受験指導していたり、自己研鑽に励んでいたりしたら、『ズルい』とか『感じ悪い』とは思わず『さすがだなぁ』と感心したと思います。

これと関連して、『平等とは何か』について考えさせられたエピソードを語りたいと思います。

今度は中学生の頃まで遡ります。

中学生の頃、フラフラしていて何がしたいのか分からない男の子が同級生にいました。勉強に打ち込むでもなく、スポーツに打ち込むでもなく、かと言って反抗的な態度で不良のように振る舞うでもなく、何を考えているのか分からない子でした。

彼よりも、もっと不思議だったのは、学校の先生が、特段、彼を咎めなかった事です。

『もっと、しっかりしなさい』とか、『もっと、勉強とか、しっかり頑張りなさい』とか、そういう叱咤激励をするどころか、どこか甘やかされているように感じたのです。

ある時、その子が、何か学校に持ってきてはいけないゲーム機を持ってきていて、その電子音が教室に鳴り響きました。先生は、鬼の形相で、誰か名乗り出よ、と言いました。そして、しばらくすると彼が名乗り出ました。

その時、先生は、怒るどころか、彼が正直に名乗り出た事を、皆の前で褒めたのです。

私は当時、腑に落ちないな、と感じました。

今、大人になったから分かるのですが、おそらく先生は、その子がそれ以上『出来の悪い子』にならないように、配慮していたのだと思います。

余談ですがその子は、大人(三十歳以上)になって、とある犯罪を犯して逮捕されていました。(犯罪の内容は割愛します)

私はその時、やはり自分の人生に方向性をもっていない人が、犯罪を犯してしまうのだなぁ、と妙に納得しました。

また、中学生の頃の別の場面において、私が掃除を真面目にしていなかったときは担任の先生に怒られたのに、別の同級生の男の子が真面目に掃除をしていなかったことについては、同じ先生に怒らなかった、ということがありました。

平等だ平等だ、と口ではのたまう学校の先生も、無意識のうちに、目の前の生徒を選別していたのだと思います。

この私の見解に対して、おそらく先生方は、教育現場の人間として、『それぞれの生徒の個性に応じた扱いこそが平等』という事を言うと思います。

しかし、掃除を真面目にするか、という点において、能力の有無で選別すべきでしょうか。

小学生、中学生の頃、人間は皆平等だ、と習うのですが、机上の空論と、現実は違うな、と思っていました。特に、私が通っていたような地方の公立中学校においては、それが顕著に表れているように思います。

そして、子供の頃の私を含め、この世の中の多くの人間は、『平等』というものの意味を取り違えているな、と感じます。

そして、何より大事なことは人はそれぞれ、能力、適性において異なる、という事実を認識する、ということだと思います。

端的に言うと、『この世は不平等であることを受け入れる』ということが大事ではないか、と私は思います。

少なくとも、勉強に打ち込む人間は、世俗的な下品な趣味は、控えた方が良いと、私は思います。

 

後輩

先輩のお話を聞いていたら、合格者って、そのカテゴリーこそ『合格』という名前のついたもので呼ばれますけれども、人間の完成形のようなニュアンスのある『合格者』というよりは、未だ人生において何かを探究し続ける『求道者』のようですね。

 

先輩

はい。そういう理解もあるかも知れません。

今だからこそ言えますが、私は、十代の頃、自分が世界の中心であるかのように考えてしまうことが多々ありました。

ただ、勉強が進むにつれて、自分は世界の中のごく一部に過ぎないのだ、と考えるようになりました。

この点は、精神状態が成長したな、と感じます。

この先、どんな難関試験に合格しようと、どんな偉業を成し遂げようと、自分が山の頂に立つことはないのだ、という事実を、謙虚な気持ちで前向きに受け止めることができています。たとえ、自分が山の頂に立っているように見えたとしても、実際はそうではなく、自分は世界の一部であるのだ、ということを肝に免じておくべきだ、と思います。

その方が、良い状態で物事に打ち込めるように思います。

 

ーーーーー

後輩

先輩の話を聞いていると、何だか、『試験勉強』という一見すると人生のごく一部の時期の行動が、人間の本質に関わるものなのだな、と感じるようになりました。

『試験勉強』において、こんなに人生というものの考え方、価値観が関わるのだな、と驚いています。

もはや哲学ではないか、と感じるほどです。

 

先輩

私も、試験勉強期間中、その期間が長かったこともあって、哲学的な事をよく考えました。

そして、それは時に最短ルートでの合格の障害になったものの、私の人生にとっては決して無駄ではなかったと思っています。

むしろ、試験の合格に直結する勉強と同じくらい価値のあるものであったと思っています。

受験生であった頃、一時期、ある事情によって、私は試験が受けられなくなるのではないか、ということがありました。

でも、私は、その時、『司法試験というものが、この世から無くなったとしても、今自分がやっている勉強を続ける』と思うほど、勉強中心の生活をしていました。もう、ここまでくると、哲学的だな、と思いますよね。

でも、実際、司法試験に受かっている人、特に上位で受かっている人の多数は、この世から司法試験というものが無くなってしまっても、何らかの勉強に没頭できた人であろう、と私は思うのです。

勉強というのは、客観的に見ると『試験のため』であるのが当然のように思えますが、勉強に打ち込んでいる当事者としては、もはや『自分の人生そのもの』という感覚になっているのです。

それはある意味、私の人生哲学ともいえると思います。

 

ーーーー司法試験に落ちたあなたへ(4)はnoteにて公開

note.com