予備試験を地方で独学受験やってみた。そして受かった。

予備試験を、東京から遠く離れた地方で、予備校の答練を使用せずしました。

司法試験に落ちたあなたへ(4)続きパート2

司法試験に落ちたあなたへ(4)続きパート2

 

後輩

自分は勉強するたびに、自分はまだまだだ、と思い知らされるばかりで、合格後の生活が、想像できません。

でも、法曹界に長年いる法律家の方々や著名な学者さんは、将来何がしたいのか、考えておいた方が良い、と盛んにのたまわれます。

目の前の勉強に打ち込むだけじゃ、ダメなんでしょうか。

何か、高潔な目標とか、あった方が良い、というか無ければダメなのでしょうか。

合格した方々は、決まって、社会正義の実現というようなことをおっしゃいますよね。私はまだ、自分のことに精一杯で、社会正義の実現ということにまで、思考が及んでいません。

図書館で勉強していて、騒がしい人がいると、彼らはルール違反をしていて、社会の規範を害しているな、と感じるので、たまに係の方に言って注意してもらうことがあります。自分の生活で思いつく、社会正義の実現というのが、こんな小さな事しか思いつきません。

先輩も、自分の欲望だけではなく、社会正義の実現を考えていることが伝わってきます。

合格するって、ズバリ、どういう感覚ですか。

 

 

先輩

『合格』というのは、あくまで当該試験において、一定の水準に達していたということの証明であって、人間として素晴らしいことの保障ではありません。

夢の無いようなことを言うと、よく、巷で言われる、勝利の美酒など、無いのです。

同時に、私も受験生の頃、『合格の味』ってどんなものなのだろうか、とよく考えたので、あなたの疑問もよく分かります。

実際に、自分が合格しているという事実から、『合格の味』を言わなければならない状況になったとして、強いて言うなら、『無色透明』でした。

特段、心境の劇的な変化というのは無くて、物理的な状況の変化を考えた、というだけでした。

あぁ、来年の五月は、もう試験を受けなくて良いんだな、そのためのホテルと交通手段を予約しなくて良いんだな、という感覚です。

受験勉強が終わっても、勉強自体がまだまだだ、という感覚は、拭えないので、自分の実力が急激に上がった、という感覚はありません。

ただ、勉強を試験日まで継続できた、という紛れもない事実に対しては、幾分かの自信と誇りをもてるようになっています。

そして、世間一般の人を見渡すと、そこまで勉強できる人間が、驚くほど少ないということに気付かされます。

そういう時に、この世の中がもっと良くなるためにな、世間に生きる人間それぞれが、自分の人生に一生懸命に生きられることが必要なのだ、と実感します。そうして、究極的には、一人一人が自己実現を果たした上で、社会全体の調和的発展を望む気持ちになります。

そういう自分の心境と、司法試験において要される能力として身につけた妥当な問題解決能力とが、絡み合って、『社会正義の実現』という言葉が出てくるのだと思います。

司法試験で要求されるものに応えられる能力を身につけた人間は、いつのまにかにか社会の要請に敏感になり、それに応えようとする人間となっている、ということです。自分のやりたい事、というものを、社会の要請とセットで考えられるようになっているということに気づきます。

そもそも、司法試験、というものが、大学入試などと異なり、個人の能力を図るものというより、法律家を養成するための通過点として提示されたものだと、文面からではなくて実体験(受験勉強と本試験の受験)によって理解できるようになったように感じます。

もっともそういうことは、勉強を継続していくうちに自覚するようになるものだと思うので、最初から、無理に意識しようと思わなくて良いと思います。

 

後輩

先輩も、やはり勉強していくうちに、『社会正義の実現』のため、という考え方になってきた、ということですね。

 

 

先輩

はい、そうです。

私は、司法試験の当日、試験会場のホテルに宿泊していたのですが、そこで受験に疲れたのか、自分が自分として生きている感覚というものが、無くなっていることに激しく動揺しました。

他の人には、なかなか理解されないかもしれませんが、自分という感覚が無いことに、動揺したのです。

そして、それ以来、『確かな自分』という存在を常に疑うようになりました。

考えてみれば、不思議だと思いませんか。

私達は、『自分』という人間の人生から逃れられないにも関わらず、『自分』というものの正体、『自分』が何者であるか、について、何も知らないのです。

世俗に生きる多くの人は、私のこの問いが、よく分からないと言う人も多いと思います。

でも、あなたのような、勉強に打ち込んでいる人は、少なからず感じたことのある疑問なのではないか、と私は思うのです。

 

後輩

私は先輩の問いには至らないかもしれませんが、何となく分かる気もします。

社会的地位が高く、法律の専門家である、弁護士か検察官になりたいと思って受験勉強を始めたわけですが、本試験の問題を一科目二時間と時間を計って解いて、答え合わせをしていくうちに、こんなに辛いことがしたいわけではなかった、という気持ちになりました。

自分の学習開始当初の決断と思い込みが、誤っていたとしか思えない、と思うこともよくありました。

だからと言って、他に取り柄があるわけでもないので、勉強を継続するしかないという現実に直面して、嫌になることもあります。

別のことをやっていたら、それはそれで、『社会的地位高い人間としての法律家』という評価を自ら逃したことを後悔していたような気もします。

 

先輩

まずは、目の前の勉強に対して一生懸命取り組む。そして、それを試験の当日まで継続する。

受験生としては、まずはそれが出来ることが大事だと思います。

そうすると、自ずと社会に対する考え方なども変化してくるようになると思います。

余談ですが、あなたのような若い受験生としての考え方に触れて、昔の自分を思い出すこともあります。

私が、昔、本試験を受け終えた後、ようやく一年が終わり、また新たな一年が始まり、自分はまた一年歳を取るんだな、とよく思ったことがありました。

それは、自分の誕生日をむかえた時でもなく、新年をむかえた時でもありませんでした。

ズバリ言うと、それは五月にある本試験を受け終えて、いつも通っていた図書館に戻った際、桜の木が青々と生い茂っている姿を見上げた時でした。

試験直前期は、事故を起こしたり、風邪をひいたりしないように、大事をとって家で勉強していたので、若葉をつけ出した桜の木を見る機会があまりありませんでした。

冬の間、図書館に通い詰めていた時期の、裸の状態の枝が私にとっては、見慣れた桜の木の姿でした。

四月の満開の花をつけた時期には、受験生としてはシビアな時期にあたるため、ピンク色に染まった華やかな景色を冷めた目で見つつ、サッと通り過ぎていました。

その後、桜の花が散ると同時に、若葉をつけ出していたのは認識していました。

ただ、試験が終わって、しばらく休憩期間をもうけた後に、図書館に行くと、見慣れたはずの桜の木が、大きく変わっていることに気づいたのです。

そして、その生命力に圧倒されました。

自分の受験勉強の一年が終わったことを実感すると同時に、また新たな一年が始まっているんだな、と感じました。

『時間』といものは、辛く苦しい時には長く停滞されるけれど、ぼーっと生きているときには、待ってはくれないんだな、と思いました。

そして、まさに今、お若い受験生であるあなたを見て、私も歳をとったな、と実感しています。

二十歳前後の若い時には、自分の未熟さに嫌悪感を覚え、早くちゃんとした大人になりたいな、と思っていたのですが、いざ大人になってみると、若い頃の自分が愛おしく感じるようになりました。

そして、あなたのような若い人が羨ましくも思えるようになりました。

人間誰しも歳をとりますから、年齢を重ねることが悪いことだとは思っていません。

ただ、どういう思いをもち続けるか、というのは、人間としてとても重要だと思います。これは若い人も同じです。

若い頃、真摯に向き合ったことというのは、歳を重ねてから、何らかの形で効いてくることも大いにあり得ます。

 

後輩

そうですか。悩みの多い毎日ですが、それも悪くない日々ということですね。

不安で眠れない日も多くあるので、すぐに自分の悩める日々を肯定することはできませんが、何とか勉強を継続していきたいと思います。

先輩、ありがとうございました。

 

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先輩

蛇足ですが、しばし、思うところを語らせてください。

司法試験をはじめ、各種試験において、日本の教育の問題点が顕在化しているような気がします。

日本の難関試験は、良くも悪くもペーパー試験一本主義なのですが、社会に出たら、社交性が暗黙の了解として、必要とされます。

司法試験の受験業界においても、そういう試験そのものの対策と法律家として要される能力に、多少なりとも差異があると思います。

その差異が大きいと感じるか小さいと感じるか、人それぞれです。

 

ーーーーーー司法試験に落ちたあなたへ(4)はnoteにて公開

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