予備試験を地方で独学受験やってみた。そして受かった。

予備試験を、東京から遠く離れた地方で、予備校の答練を使用せずしました。

司法試験に落ちたあなたへ(5)【自分と人間との区別について】

司法試験に落ちたあなたへ、エピソード1についてはこちら

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【自分と人間の区別について】

 

後輩

先輩はモチベーションについてどうお考えですか。

 

 

先輩

モチベーションについて。自分は変われる。なぜなら、自分も人間の一人であるというのは紛れも無い事実であるから。

 

予備試験合格し、その後本試験を受験しました。

そして、先に予備試験経由で合格した方から、『もう、普通に勉強していたら受かるから、余計なことをやらない事が大事』と言ってくださり、勇気をもらいました。

そして、『若くて優秀』と言われる予備試験合格者の方とも、お会いしてとても励まされました。

それは、本当に良かったと思います。

しかし、私個人の勉強について、予備試験対策でしたことに加えて、本試験対策として、さらに勉強をしなければならないことがありました。

 

 

最近、弁護士×IT、とか、弁護士資格プラス何か一つの能力があると、良い、と言われる傾向にあると思います。私も、そう思って、受験時代に試験勉強以外にいろんな事をしました。例えば、小説、英語、塾講師、簿記、などです。

でも、試験に合格する最も近道は、やはり試験勉強に打ち込むことだった、とかなり時間が経過した段階で気づきました。

それに、試験に合格した後ならまだしも、試験勉強期間中に、他のことに打ち込んでしまうと、試験勉強に支障をきたす場合もある、と後になって気づきました。

なぜなら、自分の趣味としている事は、試験勉強と相反する行為である可能性もあるからです。

これは説明の難しいところですが、一言で言うと、『自分』という存在と『人間』という存在は、似て非なるものである、と感じるようになるからではないか、と思います。

勉強というのは、それに打ち込んでいると、大抵の場合には、『自分』の無知さを思い知るため謙虚になります。でも、それが、『人間』としては、正常な状態である、と私は思います。

他方で、『これがやりたい』『あれがやりたい』というのは、自分の個人的な願望や欲望からきている側面が強く、あまりにそれを強く押してしまうと、『人間』として勉強に打ち込むことが困難になってしまう場合があると思います。実際に私がそう感じた時もありました。

やはり、『自分』も一人の『人間』に過ぎない、というまぎれもない事実を謙虚に受けとめて、日々、できる限り真摯に生きることが何より大切である、と思います。

そして、そう考えて勉強に打ち込んでいると、たとえ成績が良くても、それは日々勉強に打ち込んだ『人間』として当然のことだ、と思えるようになり、『自分』の存在を強調した、つまり我を押し通すような下品な真似をしなくて済むと思います。

 

後輩

なるほど。

『自分』と『人間』の区別ですか。確かに、『人間』という存在を深く掘り下げていくと、自分であって自分でないような、気持ち悪い気分になります。

その区別について、もう少し詳しく教えて下さい。

 

 

先輩

 

『人間』ならば誰しも、何かの試験に向けて一生懸命努力して勉強したら一定の効果を上げることができます。

そして、『自分』も『人間』の一人ですから、試験に向けた努力をすると、何らかの効果は出るわけです。

それを当然のこととみなして、勉強を日々継続していくと、その過程に本試験の日が来て、それなりの成果を出すことが出来ます。

そして、その時出た成果というものは、『人間』が勉強した当然の結果ですから、『自分』としては、『人間』の一人として、誇りに思って良いことですが、『自分』として自慢するべきものではありません。このようなことから、一生懸命に勉強した人は滅多に自慢をしないという事実も、納得がいきます。

 

 

ただ、社会に出ると、単に『人間』として勉強ができるだけではなく、『自分』なりの感性や考えを形にすることが重要視されます。

『人間』として勉強ができることに加えて『自分』なりのアイデアを持っていること、それを形にして提示する実行力が要される、ということです。

 

『自分』という存在と『人間』という存在の区別を、上手く切り分けて自分の中で使いこなすことが、勉強する上でも、社会で生きていく上でも、重要だと思います。

そういう事が個人的には、『思いの他』重要でした。