若者が怒られる意味
私は、子供のころから怒られるたび、「何で私だけ?」という思いになりました。
同じことをしても特定の人間だけに怒る大人に、すごく不条理さを感じでいたのです。
そして、その思いは大人になって、社会人になってから、さらに強まりました。
特に、二十代前半から半ばにかけてのことです。
上司に苦言を呈されるたびに、同じような失敗は他の同期もしているじゃないか、と反論したい気持ちでいっぱいになりました。
その考えが和らいだのは二十代後半に入ったばかりのころ、大学院生のとき、某所で職業体験をさせてもらったときのことです。
そこで私にいろいろと指示をしてくださった方が、「あなたに厳しく怒るのは、あなたに期待しているからです」と言ってくれたのです。
そのときはあまりピンときませんでしたが、嫌がらせではない、ということだけははっきりしました。
また、別の場所での職業体験においても、年上の女性に、「どう?」と聞かれて、「それはもう、私一人だけ中学生であるかのように、たくさん注意されます。」と返した際、
「何も注意されないのは、諦められてる、ということだから」と言われました。
このときも、やはりそういうものなんだな、と思いました。
もっとも、その真実性を実感したのは私が怒る立場になってからです。
たとえば、自習室や図書館でチャラチャラしたコが煩くしていても、どうせ注意しても恨まれるだけだろな、と思い注意が憚られるときがあったのです。
自分が怒られる、ということは、自分がそれだけ怒られる人間に値し、何より怒る人間から愛されていることなんだ、と実感しました。
その方法、程度によっては、最近話題の体罰にもなりかねませんが。
いずれにしても、どうでもよい子は、放っておかれるのです。
そのことを、心身ともに大人になった今、ヒシヒシと感じるのです。