習慣の偉大さ
最近、速読英単語(上級編)を少しずつ読むようになりました。
そして、最初に読んだテーマの日付が7月4日となっていることからすると、1週間以上続けられたことになります。
50ある話(テーマ)のうち一日2、3テーマずつ読むという感じで、ペースとしては比較的ゆっくりです。
無理なく続けようと思っていましたが、ここまで続けられたのは少し自信になりました。
もっとも、このことは、今までも速読英単語(必修編)をかばんに持ち歩いて暇なときに読んでいたこと、しかも全てを読み終えたことと無縁ではありません。
この本(速読英単語(必修編))は、高校時代に使用していたものを大人になってからの英語学習に使おうとしたものです。
上級編になると難しくなるのではないか、と思っていたのですが、意外にもすっと入っていけました。
これも、”慣れ”かなと思います。
なぜ、英語を学習するか、ということなのですが、私には、子供の頃から(断続的であれ)継続している英語の学習を、しない理由のほうが見あたらないのです。
語学は、日々触れていないと一年、いや一ヶ月も経つとかなり衰えてしまい、以前の状態を取り戻すのは難しいです。
そうすると、(字幕で見る)洋画や「スーパープレゼンテーション」(Eテレ)も、自分なりの訳ができなくなります。
そうなると、自分の人間としての衰えを英語の分野でも感じるようになり、悲しい気持ちになります。
人間、一度習得した貴重なものは、なかなか失いたくないのだなぁ、と思わされます。
もしかしたら、英語ができて当たり前、の時代を私自身が痛感しているからかもしれません。
また習慣については、日々日記をつけるということもしており、ここ2、3年その傾向が顕著に表れています。
文章を書くことが、全く苦ではない、というよりは、文章に自分の思ったことを記すことによって、自分の気持ちがすっきりしてストレスが軽減される、という感じです。
他の人にとっては、ストレッチだったり、筋トレだったり、するのでしょう。
以前、学生時代の友人と泊りがけの旅行に行ったとき、寝る前に友人が一人でストレッチをし始めたことに、当時は驚愕しました。
他の人の習慣は、もしかしたら、私にはとてもすることができないような事であるかもしれません。
もっとも人それぞれ内容は違えど、これをしないと気がすまない、という気持ちは同じではないか、と思うのです。
私は、若い頃から今に至るまで、飲酒、喫煙を習慣的にしたことがありません。
もし、飲酒、喫煙を日ごろからしていたとしたら、今ごろすごくはまっていて、現在とは全く違う生活習慣になっていたんだろな、と思います。
習慣、恐るべし、です。