予備試験を地方で独学受験やってみた。そして受かった。

予備試験を、東京から遠く離れた地方で、予備校の答練を使用せずしました。

親族と他人

先日、久しぶりに遠方に住む親族と食事をする機会をもった。

そして、その後、一緒に自然の中を散策した。

時間にして、3時間、一緒に時を共にしたことになる。

気心知れた仲間、という関係とは少し違うけれど、互いに自然に語り合えた。

そんな時間を過ごした後、ふっと思った。

親族と、あかの他人とで、何がちがうのだろうか、と。

もちろん血縁関係にある、という点において、法的、生物学的に、あかの他人とは明確に違う。

しかし、意識のレベルにおいて、あまり違いが無いように感じたのだ。

「親族だから」という理由が意識のレベルであるから、他人とは違うように振る舞っているが、この体験を通して、他人に対する意識も変わりそうだ、と私は思った。

自然散策の現場には、カップルや小さい子供連れの夫婦が多くいた。

そういう人達に、いつも無関心な私が、まるで、自身の親族のように感じだのには、自分自身が驚いた。

特に小さな子供に対して、無関係な人達、という意識から、急に、愛おしい存在に変わっていたのである。

この瞬間、普段は個人主義的に生きている私が、他人に寛容になれたのを実感した。

知らない人に、たとえ事務的な内容であれ(エレベータで、降りる階について等)、お話できたのは、そういう意識のためだろう。

あかの他人である彼らにとって、私や私の親族は、独立の人格をもつ存在である。

そして、自分と連帯感があるように振る舞っている、親族も、独立の人格をもつ人間である。

このことにおいて違いは無いわけだから、自分の親族だから、という区別は何の意味があるのだろう、と思ったのだ。

意味の無い区別だとしたら、そういう意識は、どうやってもつものなのだろうか。

例えば、自分の子供に対して、自分のもの、という意識をもっている親がいるとする。

ここで、自分のものか、自分のものでないか、はどうやって区別をするのか、と私は思うのだ。

当然、他人の中には、私のような他人に対して、冷たく、そっけない態度をとる人達もいる。

しかし、それは、他人だから、というよりも、その人自身の性格によるものでは無いだろうか。

おそらくそのような人達は、親族、家族に対しても、やはりそっけない態度をとるのではないか、と思うのだ。

そう考えると、ますます親族と他人の区別がなくなるように思えてならない。

もっとも、これは私の個人主義的思想からくる疑問なのかもしれない。