芥川賞受賞作、「異類婚姻譚」(by本谷有希子さん)を呼んで
先日、「異類婚姻譚」を読みました。
独特の世界観が出ていてなかなか面白い作品でした。
ただ、飽きっぽい私は、中盤くらいになってだんだん飽きてくるのが分かりました。
基本、私は短編しか読まないので、長い話はよっぽどのことがない限り、嫌気が差すのです。
そんな私の悪い癖が出てしまいました。
中盤になって、「この作品において、婚姻によって両者の個性が似てくる、ということが言いたいのはよく分かった、以後のページにおいて、これ以上何を殻たるのだろうか」と思ってしまったのです。
「本」というものは、著者の感動が大きく、かつ物語に著者の実体験が含まれているほど、面白いものになる、と私は思っています。
(「若きウェルテルの悩み」など、そのもっともたるものだろう、と思います。)
「異類婚姻譚」は、そういう’逃げ’の無い数少ない作品の一つだ、と感じ読み始めは、興味を持てました。
おそらくストーリーにおいては、著者自身の体験と設定を変えているのでしょうが、著者の感性は十分に伝わってきました。
ただ、もし現実だとしたら、主人公は旦那様とはどうやって出会ったのだろう、というシュールな突っ込みを入れたくなり、
そこはストーリー上はノータッチだったので、「あぁ、こういうご自身が世間様に知られたくないことは隠しているんだな」と少し残念な気持ちになりました。
しかし同時に、現実だからこそ自分に都合の悪いことは隠したいのでないか、と思うと、人間の本性を垣間見た気がして、ニヤリとなりました。
その点は、たとえ芥川賞作家であれ人間である以上、共通しているんだな、と思ったのです。
具体的な場面の開示が控えますが、「このページは、作者自身の感性が如実に表れているけれど、あのページにおいては、やや設定に無理があるな」、というのを明確に感じました。
著作、というものは著者の感性や生き方がそのまま出る、ということを改めて実感し、「恐ろしいな」とまで思ってしまいました。
自分が作品を書くときにも、フィクションならではの、’ご都合主義’にならないよう、気をつけよう、と思いました。
いい作品を書くには、良い本に多く触れる、という方法ももちろんありますが、
人の振り見て我が振りなおせ、という教訓も得られる場合もあります。